2015年9月27日日曜日

もうすぐ10月!

ときの流れがますます早くなっていく。世の中の出来事への反応が鈍くなってきた?感動しない。自信があった体力も衰えを感じ始めた・・・。人生のXデイが次第に忍び寄ってきたのかなぁ?それにひきかえかみさんはますます元気。おばさん仲間との交流がひっきりなし。

27.9 投句 ・・・猫跨ぎ

降ったり止んだりで、すっきり秋晴れといかない。
とりあえず9月十句。先月の奈良行の句が溜まってきて、大半が関連句となった。
ところで逸徳氏はご機嫌如何かな。まあ御高評かたがた近況でも聞きたいもの。

・葛切やならまち坂道昼下り
・夏の夜の鹿の眠れる地の湿り
・飴売も灯籠の夜のひとりなる
・ほそみちの築地(ついぢ)の崩れ菊畑
・みんみんに大和訛の徴あり
・秋晴の鴉は高く帰りけり
・いつの間にひぐらしは止み伎藝天
・町へ出ぬ道かも知れず夏薊
・青柿やひとつの思想地面に落ち
・しらじらと貝殻の過去いなびかり

2015年9月25日金曜日

27.9 仁句鑑賞 ・・・猫跨ぎ

 すっかり秋らしくなったですね。昨日、村上春樹原作の「海辺のカフカ」という芝居を見てきた。蜷川幸雄演出。なるほど、これが現代の演劇か。感心しきり、面白かった。
  最近の異様な三大事件。①在日ペルー人の無差別殺人②フォルクスワーゲンの世を欺く巨大インチキ事件③メッカの700人を越える圧死。世の中、全く何が起きるか判らないね。

まずは今月の仁句鑑賞

1.物置の隅からサーベル曼珠沙華
昨今の世相への懸念か。あるいは蛮勇をふるって打って出るか。(それはないか)
2.文明の利器に頼らず初紅葉
車で深山を巡らず、足を使えということかな。しかしもう車無しではやっていけない文明を作ってしまった。もっとも個人的には私は車を持たないが。
3.深爪をしない程度に居待月
つまり、中庸がいいという心だろう。
4.落蝉や二十歳のままに時停まる
落蟬なら、二十歳で命絶えたのだろうか。それは余りに儚い。心理的にはあの時のままということかな。
5.小吉でも良しとしようよ零余子飯
寅さんが言うような言葉だね。これも中庸がよしという感じ。
6.海風を器に満たし月の客
そういう文人的な来客なら歓迎だが。噛んでもスカスカの味のない人間が増えた。特選。
7.新蕎麦や楷書の墨の滑らかさ
行きつけの蕎麦屋の壁のメニューが書きかえられたらしい。気分一新というところ。準特選。
8.秋霖や綻び残し会議場
議事録、提案書なんかが綻びるのはわかるが、会議場がそうとは。形あるものは仕方がない。さっさと修繕すればと思うが。←ちょっと誤読かな。「~残す会議場」ならこうなるが、「残し」は連用形だね。ここで軽く切れるわけだ。三段切れとなってしまうなあ。
9.煎り止めたコロンビア豆鳥渡る
アメリカンコーヒーは煎りの浅いコーヒー豆を淹れたもの。だからレギュラーコーヒーをただ薄めたわけではないと喫茶店主は言う。しかしこの句の寓意するところは難しいね。
10.コスモスの風を諫めて居りにけり
何故諫めるのかな。風はおもむくがままに行かせるのがいいのに。
でも、これも出過ぎを誡めている。

今回は出過ぎを誡め、中庸が良しという東洋的な諦観に満ちた作品が多かった。最近の心境かな。

2015年9月23日水曜日

函館通信2-35・・・秋分・・・仁兵衛

 酷暑があり川の堤防が決壊し小噴火が続いている中で安保法案が新たに出来上がってしまった。個人的には体調がすぐれない事も手伝って俳句を作るのも億劫になってしまった。そして何時の間にか秋分の日を迎えている。
 大雪山の初雪も平年と同じだと一週間前に報道されたが今日はまた夏日になり身体を持て余した孫(男)3人が来て狭いマンション内は“わや”である。
 気を取り直してやっとの思いで間に合わせた九月の十句宜しくお読みください。

1.物置の隅からサーベル曼珠沙華
2.文明の利器に頼らず初紅葉
3.深爪をしない程度に居待月
4.落蝉や二十歳のままに時停まる
5.小吉でも良しとしようよ零余子飯
6.海風を器に満たし月の客
7.新蕎麦や楷書の墨の滑らかさ
8.秋霖や綻び残し会議場
9.煎り止めたコロンビア豆鳥渡る
10.コスモスの風を諫めて居りにけり

 

2015年9月8日火曜日

いろいろ・・・猫跨ぎ

いや、どうもどうも。何を謝っているのかな。全くNo problem だよ。こういう話のやり取りが面白い。
前段の部分ね。端的に言って、私の印象では、多弁な若者の社会的問題に関する言説は、昨日読んだ朝日新聞の社説の受け売りか、「世界」(いやあ、もうこの雑誌死に体だね)の記事のおうむ返し、それに類することがが多かったんじゃないか。今も同じだろうと思う。
そして成長するとは、認識の土壌がそれなりにしっかりしてくるということ。(そうでないのも多いけどね。) そのために社会経験は必要だ。勿論勉強も。当たり前のことを言っているつもりだけれど。
それを大人になるとは物事を丸く収め、ずるく立ち回ることを覚えるという、これはあなた、下世話というか、随分紋切り型だなあ。そういう若者は当時もいたし、いまでもいるよ。それは老若とわず人間の本質的なことだろう。若さへの無条件の讃美ははっきり言って辟易する。勘弁して欲しいよ。若者は失敗し、傷つきながら成長していくのではないのか。

   後段については、根本的に考え方が違うと言うしかない。何度も同じ事をいうけれど、自衛隊と日米安保は、最大の憲法違反だろう。私も憲法前文は暗記させられた。九条を虚心坦懐に読めば、逆さにしても合憲だなんて言えない。しかしならば自衛隊と日米安保の廃絶の運動は何故起きないのだろう。それは国の成り立ちの根幹を構成しているからだ。自衛隊、日米安保を容認した村山首相(当時)の国会演説とその時の議場の何とも言えぬどよめきを今でも覚えている。
この事態を素直に眺めれば、結局今の憲法(九条)はとっくに存在の意味を失っているということじゃないのか。私は保守論者では全然ないつもりだが、おおもとの憲法違反に目をつぶっているのはモラルの不在ではないかという主張には全く同意する。
戦後の保守政党の政策はこの憲法との辻褄合わせに汲々としてきた連続だったと思う。ここへ来て、もうどもならん状態になったというのが只今の姿ではないか。

  長くなったので結論を言ってしまうが、 集団的自衛権に関わる安保法制は、この括りの中でやむを得ない流れだと思う。アメリカの中に、日本ただ乗り論がくすぶっている。アジアを捨てる動きもある。ここ当分は米軍に居てもらわねばならんのだ。悔しいが。アメリカの51番目の州だという罵詈を受けようとも。
後期資本主義の繁栄の徒花をここしばらく味わうのならこの道しかないと思うよ。あのさ、誰かそうでない道を示してくれないか。貧しくなったっていいんだよ。真の独立国で行けるのなら。その理想を具体的に語れるのなら、日本の姿は全く違ったものになる。なぜそこからの議論にならないのか。出来ないからだ。

まあね、叩き切れとリーダーを名指しして別にお縄を頂戴するわけでもない、良い国じゃないか。ナチス張りの軍隊の行進を見せつけるどっかの国に比べて。この時代錯誤には眩暈を覚えたね。
もうちょっと続けよう。朝日の小熊氏の論説。「革命なんか言っていない。ただ日常の平和を欲しいだけなんだよ。」  なんかぬくぬくと寝ていたいに聞こえるね。僕ちゃんは喧嘩や血を見るのは、お母さんから止められているから出来ないの。家にいるね。終わったら呼びに来てね。そこんとこお願いね。
寝ていられるのかい。本当にそう思っている?そこを心底訝しむものだ。  



いろいろと考えて迷ったんだが・・・・逸徳

大人になるっていうことはどういうことなのだろうか。まず、まるくまるく収めて、余計な対立は避ける。めんどくさいし、敵を増やして自分にメリットもないし、第一ケンカするエネルギーがなくなってきた。もう20年も若ければ、相手にかみつき相手を倒すまで、死力を尽くして戦った。だがもうだめだ。・・・・ そこで、相手は相手、おれはおれ、乗っている汽車が違うだけだと合理化し、議論をたなあげする。でもそれはいかにも薄汚れた世渡りの知恵だ。こういうような変にものわかりがよくなるのもいやだし、堕落だなあという気もする。・・・・・

で何を言いたいかというと、お師匠の前2回の投稿についてである。意見が合わない。それをほっぽらかすのもいいが、しかし長い付き合いである。お師匠に対して、やっぱり言いたいことをいったほうが真の友人としての態度ではないか。言わないほうが失礼ではないか。・・・・迷いに迷ってやっぱりいうことにする。 ここでの付き合いを俗世間の薄汚れたレベルにとどめたくはないなあと思うので。

最初の投稿。情緒感性と、社会認識を分けた意見。失礼だが、最初に頭に浮かんだのは、桑原の「第二芸術論」だ。 そういう分け方があるからこそ、第二芸術論のような批判が出てきたのではないか。正直いって、あの後の俳句界からの反論は周章狼狽の混乱に見えた。
 社会的認識と情緒感性は一体不離だと思うよ。 もしその後の経験によって社会的認識が変化したとすれば、これはいわゆる「転向」という概念に当たる。 
 経験の積み重ねによって社会的認識は深化することはあっても基本的な立場は変わらないと思う。というよりは、ここには「社会的認識」という言葉の意味するものの理解の問題がある。おいらにとってはそれは、もっとも根本的なものであって、時の政治用語や、社会状況にあまり影響しない、この人間社会と自分という存在との対位の仕方、生き方のようなものである。だから自分にとっては、それは非常に個人的な哲学的世界の問題だったし、若いときの表面的社会、政治的環境にあんまり影響されていない。(たとえば大学のころ、周りはみんな共産党シンパ、民青だったがおいらはまったく党派に関心がなかった。むしろ「とかくめだかは群れたがる」といって嫌われていたな。いやなやろうだった。)  そして、年を取るとどうなるか。自分の中心にある世界認識の外界への表現のチャンネル、情報のチャンネルが違って来たのである。露骨なぎらぎらはさやにはいった。いやさびたのかな。そしてここに情緒や感性の変化の問題がからんでくるのである。しかし、心の奥底をのぞきこんでみるとやっぱり自分の世界と人間に対する認識は変わっていない。よたよたと一本の線のつながりを見る。だから一顧だににしないのは、実はそれほど大したことを感じたり考えていなかったことになり、そんなことは言えない。それは自分で自分を馬鹿にしている。

二番目の投稿。 もう非武装中立なんていってるのはあんまりいないよ。というよりはこういうことでないか。9/8の小熊英二の朝日の記事の一部を紹介しておく。まったく同感だから。 

・・・・現政権は、生活や未来への不安という、国民の最大の関心事に関わる施策を後回しにして、精力の大半を安全保障法案に費やしている。そこまで優先すべき法案なのかということについて、国民は納得のいく説明を受けていない。一部の政治家や官庁が、個人の信条や局部的利害のために、国民の声のみならず、法秩序さえ虫して房総しているという懸念と反発が広がるのは当然だ。国会前の若者たちは「革命」や「非日常」を夢見ているのではない。「平和」な「日常」が崩れていく不安を抱き、それに対して何もしないばかりか、耳も貸そうとしない政権に、「勝手に決めるな」「民主主義ってなんだ」と怒りと悲嘆の声を上げているのだ・・・・

問題は政党としての機能が劣化している巨大与党と国民の対立ではないだろうか。野党はここには存在感がない。 

まあいいたいことを書いた。反対するのも友情の表現とご容赦いただきたい。ゴメンネ。

2015年9月2日水曜日

雑感・・・猫跨ぎ

  戦後一貫してある対立の構図―「抑止力の整備」と「非武装中立」の対立がますます先鋭にになった。双方、自説を主張するのみで、金輪際譲らない。妥協の余地は全く無いようだ。国会審議をみても、それが招来する国家像が全く語られぬまま、重箱の隅をつつく議論ばかりだ。
  戦争法案、徴兵制法案、か。うまいこと単純化するものだ。デモの集団の先頭に野党党首がスクラムを組んでいる光景が映るが、失礼だが迫力無いなあ。フランスデモが聞いて恥ずかしい。怒る振りをするだけ、政権奪取できると当の本人達が思っていない、そんな顔をしている。仮に政権取って、安全保障政策で四分五裂するのは目に見えている。まことに空虚なものだ。どうしても60年安保が思い出される。戦争だ、戦争に巻き込まれる―今と瓜二つだった。そして岸と安倍だ。この符合には眩暈を覚えるね。
  前、北大にいて、去年か法政大に移った山口二郎と言う学者だが、東京新聞にコラムを持っていて、前から読んでいる。とにかく安倍を罵る。政権側の対案を示せ、は敵の罠だ。答える必要はない、今は攻め時だ、だそうだ。8.30の挨拶では、安倍を叩き斬れと言ったらしい。ヤクザだね、まるで。しかし政治家達よりよほど迫力がある。でもさ、学者なんだろう、頭冷やして、あるべき貴方の国家像を開陳してくれないか。貴方の70年談話を。