2015年9月8日火曜日

いろいろと考えて迷ったんだが・・・・逸徳

大人になるっていうことはどういうことなのだろうか。まず、まるくまるく収めて、余計な対立は避ける。めんどくさいし、敵を増やして自分にメリットもないし、第一ケンカするエネルギーがなくなってきた。もう20年も若ければ、相手にかみつき相手を倒すまで、死力を尽くして戦った。だがもうだめだ。・・・・ そこで、相手は相手、おれはおれ、乗っている汽車が違うだけだと合理化し、議論をたなあげする。でもそれはいかにも薄汚れた世渡りの知恵だ。こういうような変にものわかりがよくなるのもいやだし、堕落だなあという気もする。・・・・・

で何を言いたいかというと、お師匠の前2回の投稿についてである。意見が合わない。それをほっぽらかすのもいいが、しかし長い付き合いである。お師匠に対して、やっぱり言いたいことをいったほうが真の友人としての態度ではないか。言わないほうが失礼ではないか。・・・・迷いに迷ってやっぱりいうことにする。 ここでの付き合いを俗世間の薄汚れたレベルにとどめたくはないなあと思うので。

最初の投稿。情緒感性と、社会認識を分けた意見。失礼だが、最初に頭に浮かんだのは、桑原の「第二芸術論」だ。 そういう分け方があるからこそ、第二芸術論のような批判が出てきたのではないか。正直いって、あの後の俳句界からの反論は周章狼狽の混乱に見えた。
 社会的認識と情緒感性は一体不離だと思うよ。 もしその後の経験によって社会的認識が変化したとすれば、これはいわゆる「転向」という概念に当たる。 
 経験の積み重ねによって社会的認識は深化することはあっても基本的な立場は変わらないと思う。というよりは、ここには「社会的認識」という言葉の意味するものの理解の問題がある。おいらにとってはそれは、もっとも根本的なものであって、時の政治用語や、社会状況にあまり影響しない、この人間社会と自分という存在との対位の仕方、生き方のようなものである。だから自分にとっては、それは非常に個人的な哲学的世界の問題だったし、若いときの表面的社会、政治的環境にあんまり影響されていない。(たとえば大学のころ、周りはみんな共産党シンパ、民青だったがおいらはまったく党派に関心がなかった。むしろ「とかくめだかは群れたがる」といって嫌われていたな。いやなやろうだった。)  そして、年を取るとどうなるか。自分の中心にある世界認識の外界への表現のチャンネル、情報のチャンネルが違って来たのである。露骨なぎらぎらはさやにはいった。いやさびたのかな。そしてここに情緒や感性の変化の問題がからんでくるのである。しかし、心の奥底をのぞきこんでみるとやっぱり自分の世界と人間に対する認識は変わっていない。よたよたと一本の線のつながりを見る。だから一顧だににしないのは、実はそれほど大したことを感じたり考えていなかったことになり、そんなことは言えない。それは自分で自分を馬鹿にしている。

二番目の投稿。 もう非武装中立なんていってるのはあんまりいないよ。というよりはこういうことでないか。9/8の小熊英二の朝日の記事の一部を紹介しておく。まったく同感だから。 

・・・・現政権は、生活や未来への不安という、国民の最大の関心事に関わる施策を後回しにして、精力の大半を安全保障法案に費やしている。そこまで優先すべき法案なのかということについて、国民は納得のいく説明を受けていない。一部の政治家や官庁が、個人の信条や局部的利害のために、国民の声のみならず、法秩序さえ虫して房総しているという懸念と反発が広がるのは当然だ。国会前の若者たちは「革命」や「非日常」を夢見ているのではない。「平和」な「日常」が崩れていく不安を抱き、それに対して何もしないばかりか、耳も貸そうとしない政権に、「勝手に決めるな」「民主主義ってなんだ」と怒りと悲嘆の声を上げているのだ・・・・

問題は政党としての機能が劣化している巨大与党と国民の対立ではないだろうか。野党はここには存在感がない。 

まあいいたいことを書いた。反対するのも友情の表現とご容赦いただきたい。ゴメンネ。

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