鶴彬こと喜多一二(つるあきら=きたかつじ)は石川県高松町に生まれました。大阪などで労働者として働き、金沢連隊入営後も侵略戦争に反対する川柳をつくりつづけました。26歳のとき民衆の心をゆさぶるプロレタリア川柳を飛躍的に発展させたいと上京し活動中、1937年12月に野方署の特高に治安維持法違反で逮捕されました。
暁を抱いて闇にゐる蕾
という自分がいちばん気に入っていた句をつぶやきながら特高の拷問に屈することなく闘いましたが、不潔な留置所で赤痢にかかり伝染病専門の豊多摩病院に移送されて1938年9月14日ついに力つきて息をひきとりました。日本軍が前年に起こした蘆溝橋事件をきっかけに中国全土へと侵略戦争が拡大するさなかの享年29歳でした。
以下は鶴彬が命をかけて発表した川柳のいくつかです。
暁を抱いて闇にゐる蕾
という自分がいちばん気に入っていた句をつぶやきながら特高の拷問に屈することなく闘いましたが、不潔な留置所で赤痢にかかり伝染病専門の豊多摩病院に移送されて1938年9月14日ついに力つきて息をひきとりました。日本軍が前年に起こした蘆溝橋事件をきっかけに中国全土へと侵略戦争が拡大するさなかの享年29歳でした。
以下は鶴彬が命をかけて発表した川柳のいくつかです。
首を縊る(くくる)さへ地主の持山である
つけこんで小作の娘買ひに来る
軍神の像の真下の失業者
銃剣で奪った美田の移民村
ざん壕で読む妹を売る手紙
出征のあとに食へない老夫婦
タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやらう
高粱(コーリャン)の実りへ戦車と靴の鋲
屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい
万歳とあげて行った手を大陸において来た
手と足をもいだ丸太にしてかへし
胎内の動き知るころ骨(こつ)がつき
つけこんで小作の娘買ひに来る
軍神の像の真下の失業者
銃剣で奪った美田の移民村
ざん壕で読む妹を売る手紙
出征のあとに食へない老夫婦
タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやらう
高粱(コーリャン)の実りへ戦車と靴の鋲
屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい
万歳とあげて行った手を大陸において来た
手と足をもいだ丸太にしてかへし
胎内の動き知るころ骨(こつ)がつき
わたしがいちばん感銘する句は、北国新聞「北国柳壇」に投稿しはじめ最初に載った喜多一二、15歳のときの作品
燐寸の棒の燃焼にも似た生命
燐寸の棒の燃焼にも似た生命
(吉橋通夫『小説鶴彬―暁を抱いて』新日本出版社を参考にさせてもらいました。著者は「暁を見ることなく闇に散った心やさしき反骨の魂は、今も私たちの胸をゆさぶってやまない。」とこの本の最後を結んでいます)
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