2015年5月12日火曜日

おひさしぶり・・・・・・逸徳

しばらくこの欄にご無沙汰していたら、うれしいことに仁ちゃんから「生きているか」と電話をもらった。うん、生きているよ。 しかし電話いただいたこと、そのこと自体がうれしい。単純にうれしい。

今日、地元の小学校の学校評議委員というやつをやらされていて、学校に授業参観にいった。IT化の浸透がすごい。 スマホすら受け止めかねている爺さんには、先生がタブレットというやつのカメラで発表児童のノートを写すと、それがそのまま前の大型テレビに出てきたり、子供たちがインターネットを使いこなすのを見せられて、びっくりしてかえって来た。教科書もディジタル化しており、必要に応じてそのページがタブレットに出てくる。 そんなの見ると「教科書を大事にしなさいっ」と子供に怒っていたおいらたちは何なんだ。 思えば遠くまで来たものだという感じ。

で、帰ってきたら仁ちゃんからの電話である。あっというまに1000キロかなたの知り合いと簡単に話ができる。このような我々をとりまく生活空間、情報空間の急速なIT化は、いったい我々の感性にどんな影響をあたえるのだろうか。

生きているということのイメージについて書いてみたい。 
・・・・深い霧のようなものが流れている。今が夜なのか昼なのか、時間はよくわからない。 ときどきその霧のかなたのいろん方向から、いろんな音が遠く、近く聞こえてくる。 密々とした霧は流れ続ける。そんな中をたった一人であるきつづけているのである。歩いていく方向の、この霧のかなたに何があるかは、さっぱりわからない。 そのうちにふと気が付く。 自分のすぐ近くを誰かが通りすぎていったり、前や後ろを横切ったりしているのである。 だが霧は深く、それはどんなやつなのかはさっぱりわからない。・・・で、霧の中を歩きつづける。そのうちにまた気が付くのである。あれ?
おいらのすぐよこに、おいらと同じ方向に歩いているやつがいる。そいつはおいらに近寄ったり離れたりしているが、やっぱりどんなやつかよくわからない。 あっ、いやそいつは一人ではないぞ。とにかく右にも左にも、霧の中を同じ方向にぞろぞろ歩いているやつがいる。その連中が持っている小さなカンテラの光が、霧を通して、ぼーっと見えたりする。そのうちにその一人がすっとよってくる。「やあ・・・」「おう・・・・」顔もよく見えないが、確かに挨拶が交わされる。そうすると、また離れていくのだが、彼と交わした挨拶のぬくもりがこだまのように、心のなかに小さな振動を起こし続けている。その余韻を静かにあじわって、また一歩歩き出す。どういうわけだか、哀しいとか嬉しいといった感情の動きはほとんどおこらないのである。霧はすべてを飲み込んで密々と流れつづける。

で、この時おいらと同じ方向に歩いているやつが、おいらと「いっしょに生きている」やつなのである。
よく見えない。だが、確かに誰かがいっしょにあるいているということに、深い安定感がある。ああいつか霧は晴れるのかなあ・・・・で、何かに出会ってふと心が動くと、ちらりと「ああ。あいつだったら何というかなあ」などとつぶやく。こういうやつがよこに歩いていることは、いいことだ。


といったようなのだが、この「すぐ横でいっしょの空間に生きている」やつというのは、イメージとしては心理的空間なのだが、やっぱり物理的な距離も関連している。今までは・・・・。これがITの進展で物理的距離の意味がなくなると、おいらたちにとって,感覚の深いところで、何か「生きている」ということの感じが変わってくるような気もする。それがいいことか悪いことかは、よくわからん。

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