大学のころ、友人に一人の男がいた。札幌西高出身で、おいらと同じサークルに入り友人になった。やさしい男で、確か東京オリンピックの入場式は、彼のお宅のカラーテレビで見たのを覚えている。サークルにはもう一人女性の友人がいた。彼女は最初藤女子大に入ったが、1年でやめて
北大文学部国文学科に入り直したという才媛である。専攻は万葉集だったと思う。確か出身は、札沼線の途中の小さな町で、冬にみんなで遊びに行ったことがあった。温厚な人だった。彼女は院に進み、国文学の研究者になり最後は、札幌学園大の教授になって退職したと思う。
彼と、彼女はやがて交際するようになる。彼は、理学部の第二化学科に進み、院を出てやはり研究者になる。最後は結核研究所の助教授になった。専攻はアフリカの熱帯病のウイルスの研究ではなかったか。そしてやがて二人は結婚した。化学と国文学の研究者どうしの家庭である。静かな夫婦であった。おいらと、彼ら夫婦の接点はサークルでの児童文学の研究会だった。よく議論した。児童文学における政治と文学の関係。当時は政治の季節だった、児童文学の世界観において基本的に現実を肯定する姿勢を「向日性」というが、この言葉を覚えたのも彼女との議論だった。 まじめで楽しい世界だった。
ところが30代後半になって、彼が突然自殺する。研究のいきづまりという説があったが、遺書はなく
真相はわからない。結核研の屋上から飛び降りてしまった。 真面目な性格であり、困ったときはまあいいや、明日にしようという所がない。それがあだだったのかもしれない。道新が「新進気鋭の北大助教授の謎の自殺」という特別記事を書いたのを覚えている。
そして、残されたものは傷つく。さまざまに傷つき、重い荷物を背負うのだ。そしてなぜ死んだんだという答えのない質問を反芻する。それはつらいことだ。残された彼女と何回か交わした手紙の中で、ずっと後になってから彼女がポロリとこぼした言葉で、非常に印象的な言葉がある。
「結局、人間は10代から20代の初めに考えていたことは、いつになってもずっと考えているんだね」
ああ、おいらは、その言葉に深く同意する。それは同時に、その時を生きてきた彼女と彼の関係のかけがえのない時間への深い愛情の表現でもあるのだろう。そしていつもこの言葉を思い出すと、じゃあおいらは何を考えていたのか、それは今でも考え続けているのかということを自問するのだ。ちゃんと燃えていたか。
時が流れた。おいらは教師になり、多くの愛すべき若者たちど出会うことができた。彼らがいとおしい。本当にいとおしいとしかいいようがない。そして、その延長線上に、東京で展開されている高校生のデモに参加する若者たちがいる。youtubeでその動画を見ると、まぎれもなくあのころの彼や彼女の顔がある。そこで流れる時間を抱きしめたいと思う。それはおいらたちの出発点だった。がんばれよ。
そして、その時間の流れの先に今の自分をおきたい。そこから自分はそんなに変わってはいない。あの頃考えていたことはちゃんと今も考えているつもりだ。だから「あのころおいらは若かった」などと完了形て゛あの頃考えていたことをそんな言葉でくくって終わりにはしない。口が裂けてもそれは絶対にいわない。あれはあれでまぎれもなく、今に続いている真実である。でないと死んだ彼にもうしわけないと思ってしまう。
彼の墓は茨戸にある。冬になるとなかなかたどり着くのが大変な場所だ。墓参りにいきたいがまあ急ぐこともないだろう。もうすぐあえる。
0 件のコメント:
コメントを投稿