前段の思い出については哀悼の意を表したい。後半の部分は、これを言いたかったのか。
たまたま考えていたので採り上げるが、芝不器男という俳人がいた。 芝不器男は明治36年生、昭和5年没。二十七歳に満たぬ一生だった。句歴は四年ほどであるが、現代俳句に与えた影響は大きい。「夭折」がこれほど相応しい俳人はいない。彼を思う度に、長い経験、一途な精進などの尊重されるべき言葉が、詩にとって如何ほどのものなのかと茫然とするのである。
何を言いたいかというと、十代、二十代に、情緒、感性はできあがる。それは詩であり音楽であり絵画だろう。自分ごときを同列に論ずるつもりもないが、その頃の感覚は完全に引き継いでいるといってもいい。
しかしね、世の中の事柄、つまり社会的問題意識は違う。もろもろの経験を積んで形成されて行くものだ。単純な情緒的な正義感がいかに判断を過つか。極端な例だが、紅衛兵を見てもいい。私はそのころの自分の社会的問題意識について情緒的に懐かしむが、実質的には一顧だにしない。
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