2017年4月17日月曜日

春がいく・・・・・・逸徳

こちらでは桜が散り、明日はへたをすると東京は夏日になるかもという。毎年、ゆっくりと花見をしていなかったので、今日の午後に近くの川の堤防の桜並木の下でひとり桜をゆっくり味わうこととした。カンチューハイとコロッケを買い、桜並木の下のベンチにすわって、何にも考えないでぼーっと空を見ている。なんにも考えないということは、感覚の受信チャンネルはすこしあけて、酒を飲んでいるだけの状態である。ひとどうりはほとんどないのでまあいいが、はたから見たら徘徊老人かなにかに見えたかもしれないなあ。
 さくらの花が散っているのだが、もう終わりがけなので目の前に2.3秒に一枚、チラリチラリと花びらが落ちていく。本当はサンサンと散る花吹雪が好きなのだがこういうのも悪くないなあ。
行く春を近江の人とおしみける、という芭蕉の句があったなあ。でもなんで春を惜しむというのだろう。春という祭典が終わるという事への寂しさであろうか。どうもよくわからない。おいらの感覚からすれば、爛漫と咲き誇っていた桜が、「よしもう俺は生き切った。これでいい」と潔く大地に戻っていくのだから、行く春は祝うべきではないか。でもこれだけでは特攻隊を賛美することにつながる。それはいやだなあ。
 しかしだ。ともあれ、花が散るという事は死の予感がある。燦々と降る花吹雪の中に身をおくと、確かに体内の何かが動くのである。命の共鳴という事だろうか。だが、それが華やかで輝いているようにみえるのは、来年の春の再生という希望をその向こうに持っているからだろう。死の向こうの生。
うーん・酒が回ってきた。ではまた。

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