2017年4月26日水曜日

もうひとつ・・・褌子

  われなくて山べの桜咲きにけり
 オレが死んでも この山桜は年々歳々咲くのだろうなあ・・
 だれの句か忘れたが、花見にふと思う句。
日本のサクラはこんなに美しいのにアベ政治は薄汚ねえ・・などと思っていたらサクラも散ってしまった。
 次は右遠俊郎『読書論ノート』からの一節。
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 桜の花は美しい。だが、生活者にとっては、それはただそれだけのことである。いっとき心が和み、何か儲けものをしたような気になる。やがて忙しい日々のなかに、桜の美の記憶も忘れ去られていく。季節がめぐれば、桜の美しさと再会できると信じるからだ。だから生活者は、ふつうなら、だれでも桜の美を所有しようとは思わないだろう。芸術の美とのちがいはそこにある。芸術の美の発生が一回かぎりであるのにたいして、自然の美はその開花を繰り返すことができるのだ。
 古来、日本の文人は、数多い花々の美しさの中で、もっとも多く桜の美について語り、歌ってきた。だが、彼らの美意識のなかには、ほとんど所有感覚がない。散り急ぐ花を惜しむだけである。ふたたびめぐりあう日までの、いっときの別れを哀惜するのである。愛する女を失ったような絶望感はそこにはない。それは、桜であろうとその他の花であろうと、自然の美は文人にとって、自分の外部にある価値であり、再生することのできる価値だからである。
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  このあと、右遠俊郎は、桜の美を外部の価値でなく、内面に押し寄せてくる価値として受けとめると、それは安らぎではなく自分の存在を脅かす不安の原因となる。美はそのとき愛と同じ働きを示しはじめると書いて梶井基次郎『桜の樹の下には』と坂口安吾『桜の森の満開の下』という二つの小説の読みどころを説くのであるが、わたしはこの二つともまだ読んではいない。

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