2015年7月8日水曜日

どうもどうも・・・猫跨ぎ

  拙句についての逸徳評は作者としてはどれも肯けるものばかり。これからもどんどんお願いしたい。
  前三句が判ったようでよく判らん、しかし消えてゆくものと確固としたものの対比というのも面白い。作句するとき、詠う景の背後に何ものかを表現したいと常に思っている。むしろそれが言いたくてというのが本意。
  しかしながら、目の前の景は、あくまで写実であり空想を紡いでいるわけではないことがポイント。虹の環の句は、実景。場所は忘れたが山の中腹から谷間を見下ろしていた。虹は環を描き、鳶は孤を描いていた。鋭く、黒く、潔く、鉄片の飛翔に見えた。
蒼空の極みは、真夏、晴れ上がった空、紺色の極みは黒に限りなく近くなるという実感を詠んでいる。
百度石は或る大寺の百度石。百度石の三文字が鑿跡深く彫られている事が印象的だった。夏潮の音と百度石の関係は特にない。独立した事象を並立させることはよく行われる。何等かの関係は深いところであるのかも知れないが、それは鑑賞に任せる、という感じ。作者の立場を敷衍すれば、写実を心象に落とすんだね。そこで別な物に変容していくというか・・・・。別に難しいことを言おうとしているのではないのだが。
  俳句よみは吟行によく出かける。作品は机の上で完成させるが、発端はあくまで外へ出て、対象と向き合ったときのこと。そのとき自分は無になっているのが好ましい。実際には出来上がりを予想して網を張っているのが実体だが、心掛けは違う―ということで、結構複雑な心境なんだ。要は事前に何等かの作意をもって作句しようという姿勢は、あまりよろしくないということ。まあ、これからもひとつよろしくお願いします。

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