FBは軽い そこまで時間をかけてやる価値はない その感覚は否定はしません その結果わたしはやりません で結構だと思います
わたしはもともと野次馬根性がややつよく 色んなことにくびをつっこむ傾向あり 雑談の輪があるとそのなかに入り込み茶々を入れる ひっかきまわす だからITの世界はわたしには格好の遊び場と認識しています Eメールから始まって FB ツイッター LINE skype(テレビ電話) と駆け巡っているのです
結局は 他人とのコミュニケーションにどこまで深入りするかのはなしなんでしょうね
¨軽い¨という猫跨ぎ氏と逸徳氏の感覚にはやや違和感があります FBのなかでは対話の相手は選択できるのだから 自分の波長に合う相手を選んでコミュニケーションを楽しめばいい 軽いと感じるのはコミュニケーションの相手に想定している人物への批判の気持ちが芽生えている ということになりませんか そこで 会話を自分で閉ざせばいいだけなんだから そこから先は考える必要はない 軽いもひったくれもない あるとすれば FBという道具そのものへの抵抗の気持ちではないのでしょうか
・・あれれ! いつのまにか熱くなっている!
まあコミュニケーションというのはそういう要素も含んだ日常の営みということで 今回は ひとまずこの辺でお開きに
2016年5月28日土曜日
2016年5月27日金曜日
函館通信2-49・・・人に伝える・・・仁兵衛
皆様ご機嫌如何でしょうか。ここの所体調の変化が著しく、元気に杖なしで歩いていたかと思うとなにもやる気がなくなり一歩目の足が前に出てゆかない日があったりと情緒が極めて不安定な時が交互に現れます。九州の熊さんがいろいろな病に負けずに頑張っておられるのに接し頭が下がります。
さて議論はFaseBookまで行きましたな。私も全くやりません。正確にはめんどくさいからやりたくありませんかもしれません。しかし、ここまで来るのにブログ、メール、電話、はがきと手紙と個人間で声なし・書言葉で何かを伝えて来た歴史が横たわっていますね。この辺り纏めたら何か面白そうな本にでも出来ませんかね。逸徳さん、猫跨ぎさんの文章力なら期待できそうに思えますが如何でしょうか。
何か訳の解らぬ事を書き始めた様ですのでこの辺にして遅くなりましたが5月の10句出します。俳句も自分で何を書いているのが解らなくなる時が多くなって来た様に感じています。
追記;昨日近くの道立公園に行きました。春ゼミ(エゾ春ゼミ?)の合唱と思われる状態を初めて経験しました。蝉は何年か一度異常繁殖すると聞いていますがこの種の蝉も果たしてそういう事があるのか判りません。調査中。
さて議論はFaseBookまで行きましたな。私も全くやりません。正確にはめんどくさいからやりたくありませんかもしれません。しかし、ここまで来るのにブログ、メール、電話、はがきと手紙と個人間で声なし・書言葉で何かを伝えて来た歴史が横たわっていますね。この辺り纏めたら何か面白そうな本にでも出来ませんかね。逸徳さん、猫跨ぎさんの文章力なら期待できそうに思えますが如何でしょうか。
何か訳の解らぬ事を書き始めた様ですのでこの辺にして遅くなりましたが5月の10句出します。俳句も自分で何を書いているのが解らなくなる時が多くなって来た様に感じています。
1.
燕来る進水式の紙テープ
2.
つぎつぎと惑星めざし石鹸玉
3.
全山の躑躅人をも溶かしけり
4.
ジーンズを穿いて五月の空の奥
5.
断層を眺めてをりぬ柿若葉
6.
本震で春の壊れてしまひけり
7.
花は葉に友の訃報や動かざる
8.
麦の秋アウトコースを空振りす
9.
棘のある言葉削りて青嵐
⒑.大漁と南風の無線の伝へけり
2016年5月25日水曜日
爺さんの与太話 ・・・猫跨ぎ
マスコミの情報だけの感想で、爺さんの与太話だが、舛添東京都知事の件。一人の男の得意絶頂から転落の劇が満座の前で繰り広げられる。たまらんなあ。
信頼できる第三者に調べてもらって少なくとも法的には何とかクリア、道義的には本当に申し訳ありません、というストーリーで沈静化したいのだろう。そんな思惑自体がみなバレバレ。人物が丸ごと軽蔑の対象になっては、もう命脈は尽きたというべきだろう。今のが三回目の奥さんらしい。間に実子2人。他に愛人というのが3人いて、婚外子が3人とか。計5人の子持ち。好きなんだね。ハゲは強いというが、おっと脱線。しかしこれなら金はかかる。政治資金を生活費に充てなければ、ちょっと廻らなかったのだろう。
都市外交と銘打って、朴大統領と会談した辺りが得意絶頂のころ。刻苦勉励、大学から政界に打って出て、巧みに泳いで、東京都知事を射止めたあたりは、我が人生はまさに・・・感涙にむせんだのではないか。
改めて思うのは、彼のことを良く言う人がいないということ。本当に友人がいないのだろう。親類、肉親も嫌っているらしい。いかにも鼻っ柱が強い顔をしている。近づくと特別の匂いがするのではないか。北野たけしは真面目な顔で人の悪口はいわない人間だと思うが、彼が、舛添は権力志向が強いといって批判していたのはへーと思った。余程の何かを感じたのだろう。転落劇の最終章か。頭がいいとよく言うが、こういう顛末で転落していくのは、結局頭が悪かったのだろう。
5000万円の猪瀬もなあ。涼しい顔をして偉そうな事をコメントし出したが、何を言ってもダメだよ、君は。
まともな奴はいないのか。
2016年5月22日日曜日
軽さ志向・・・猫跨ぎ
逸徳氏と同意見だね。
軽チャーという言葉が言われたのは随分前。ものごとなべて軽さを志向した。持ち物、衣服、靴、何でもそう。「ああ、軽いね」は大体褒め言葉だった。それは人間の立ち居振る舞い、言動、思考にまで及んで只今も進行中。思慮深さは「暗い」とされる。
フワフワして深く関わることを嫌い、その場が楽しければ、いい。そんな風潮に、ネットがその場を提供する。自分は安全地帯に身をおいて、わいわい囃し立てる。思いついた片言隻句を投げ合う。場合によっては、恐るべき悪罵を投げ、犯罪まがいに及ぶ。何故これだけ盛んになったのか―気持が良いからだ。脳内にエンドルフィンが出るからだ。ひたすら快楽のため。これに水を差す「責任」という重いものを最も嫌う。
私はまずその言動の真偽を判断するのに署名の有無を見る。無いものはそこで削除となる。
軽チャーという言葉が言われたのは随分前。ものごとなべて軽さを志向した。持ち物、衣服、靴、何でもそう。「ああ、軽いね」は大体褒め言葉だった。それは人間の立ち居振る舞い、言動、思考にまで及んで只今も進行中。思慮深さは「暗い」とされる。
フワフワして深く関わることを嫌い、その場が楽しければ、いい。そんな風潮に、ネットがその場を提供する。自分は安全地帯に身をおいて、わいわい囃し立てる。思いついた片言隻句を投げ合う。場合によっては、恐るべき悪罵を投げ、犯罪まがいに及ぶ。何故これだけ盛んになったのか―気持が良いからだ。脳内にエンドルフィンが出るからだ。ひたすら快楽のため。これに水を差す「責任」という重いものを最も嫌う。
私はまずその言動の真偽を判断するのに署名の有無を見る。無いものはそこで削除となる。
続FaceBook論・・・・逸徳
実をいうとちっとばかりFBをやったことがある。すぐやめた。時間を取られることもあるし、こんなことにのめりこんでいるほど、おいらには残されてる時間はないぞという感じがしたのである。要するに無駄な時間という気がしたのだ。
だいたい、言葉というものはある誰かに対してはくのである。これを演劇では野球のキャッチボールにたとえる。実際にボールを投げ合いながらセリフの稽古をして、身体とセリフの関係を体で感じさせるという訓練がある。 だが一体FBの言葉は、誰に向かってはいているのだろうか。反応を期待しない単なるつぶやきだろうか。だとしたら、屁と同じではないか。(屁のほうがましだ。そこから対話がはじまる可能性がある)
実感というか、はだ感覚というか、ある具体的な身体を想定してあいてに向かって言葉を送りだす。その時、実はヒトはすでにある何かの応答を無意識に期待している。だが誰とも知れない何千人に向かってはく言葉は、それは無理というものだろう。
誰ともしれない何千人かに向かって吐く言葉。もしそこから応答があったとき、すでにそういう相手はこちらを選んでいるのであり、一種の仲間意識があるだろう。ということは、対立する人間とか、敵などは応答するはずがない。しかし、我々はそういう人間に対しても、言葉の力を信じてそのような相手を説得し、こちらの世界に向けさせようとする。そしてそこから対話がはじまる。つまりFBは真の意味での対話になる可能性は低いのではないか。
なんとなく、大量の言葉の浪費がおこっている感じがする。たとえばブログに「炎上」という現象がある。何かいうと、ワッと反論が集中して収拾がつかなくなる現象である。これ反論しているやつらは全部匿名である。仮面をかぶり自分だけは安全圏にいていいたいことをいっているのである。これ病的ではあるまいか。
なんでこんなことがおこるのか。なんだか現代人の孤独というやつを感じる。いや孤独ではない。孤立かな。 馬鹿だなあ。みんな最後は一人で死ぬのに。
だいたい、言葉というものはある誰かに対してはくのである。これを演劇では野球のキャッチボールにたとえる。実際にボールを投げ合いながらセリフの稽古をして、身体とセリフの関係を体で感じさせるという訓練がある。 だが一体FBの言葉は、誰に向かってはいているのだろうか。反応を期待しない単なるつぶやきだろうか。だとしたら、屁と同じではないか。(屁のほうがましだ。そこから対話がはじまる可能性がある)
実感というか、はだ感覚というか、ある具体的な身体を想定してあいてに向かって言葉を送りだす。その時、実はヒトはすでにある何かの応答を無意識に期待している。だが誰とも知れない何千人に向かってはく言葉は、それは無理というものだろう。
誰ともしれない何千人かに向かって吐く言葉。もしそこから応答があったとき、すでにそういう相手はこちらを選んでいるのであり、一種の仲間意識があるだろう。ということは、対立する人間とか、敵などは応答するはずがない。しかし、我々はそういう人間に対しても、言葉の力を信じてそのような相手を説得し、こちらの世界に向けさせようとする。そしてそこから対話がはじまる。つまりFBは真の意味での対話になる可能性は低いのではないか。
なんとなく、大量の言葉の浪費がおこっている感じがする。たとえばブログに「炎上」という現象がある。何かいうと、ワッと反論が集中して収拾がつかなくなる現象である。これ反論しているやつらは全部匿名である。仮面をかぶり自分だけは安全圏にいていいたいことをいっているのである。これ病的ではあるまいか。
なんでこんなことがおこるのか。なんだか現代人の孤独というやつを感じる。いや孤独ではない。孤立かな。 馬鹿だなあ。みんな最後は一人で死ぬのに。
2016年5月21日土曜日
いやまったくそうだ・・・・逸徳
ここに褌子氏が出てこないまま、こういう話をするのは何となく片手落ちの気がしないでもないが、最近のFaceBookなどのSNSについてはおいらも違和感がぬぐえなくって困っていた。
簡単にいえばこれは本当に人と人のコミュニケーションだろうか。第一に、コミュニケーションというのは、他者との情報のやりとりであるが、よく知られているように情報はただ言葉の意味だけでは伝わらないのである。相手の声の調子や、音の変化、身振りなどの身体言語をともない、実際に相手に伝わる情報量というもののうち。言葉の意味が担うものは1割以下だという話がある。目は口ほどにものをいいとか、色っぽい身振りなんてものはSNSでは不可能である。第一言葉の字面だけで恋ができるのか。SNSの反応で「いいね!」とか、読者登録なんてものはどうも気持ちが悪いのである。これは従来のコミュニケーションの範疇とは違うのだろう。
それにだ。人と知りあい、相手とむかいあってコミュニケーションをとるということはそれこそ全身的エネルギーを使うことであって、だからこそそこに誠実さとか、言葉の裏の意味(演劇でいうaside、つまり裏セリフ)などという微妙な世界が出現する。だから「あんたなんかだいっきらいよ」という愛の告白も成り立ちえる。だが活字でそれができるか。SNSで子供がつくれるか。
第一に、そういうエネルギーを使うと、脳の容量からして、コミュニケーションできる人数には限界があるという。 自然界のさまざまな生物の脳の重さと、その生物がつくる安定した集団の所属固体数には一種の比例関係があるという研究がある。さまざまな生物の脳とその集団の規模をグラフにして、そこに人間の脳の重さを挿入してみると、適切な集団規模は数百人なのである。生物が小さくなるほど集団数は大きくなる。数千人なんて数に対応するのは、大腸菌ぐらいだろう。とにかく人間社会は大きくなりすぎたのだ。中国を見ろ。・・・・・などということか゛浮かんでくる。さあ、この文
褌子さん読んでくれんかなあ。
もっともFaceBookをコミュニケーションととるからよくないのかもしれない。あれは視聴者が反応すると数が出てくるテレビショッピングみたいなものかもしれない。そう考えればいいか。しかしそうするといったい何を売っているのかね。
簡単にいえばこれは本当に人と人のコミュニケーションだろうか。第一に、コミュニケーションというのは、他者との情報のやりとりであるが、よく知られているように情報はただ言葉の意味だけでは伝わらないのである。相手の声の調子や、音の変化、身振りなどの身体言語をともない、実際に相手に伝わる情報量というもののうち。言葉の意味が担うものは1割以下だという話がある。目は口ほどにものをいいとか、色っぽい身振りなんてものはSNSでは不可能である。第一言葉の字面だけで恋ができるのか。SNSの反応で「いいね!」とか、読者登録なんてものはどうも気持ちが悪いのである。これは従来のコミュニケーションの範疇とは違うのだろう。
それにだ。人と知りあい、相手とむかいあってコミュニケーションをとるということはそれこそ全身的エネルギーを使うことであって、だからこそそこに誠実さとか、言葉の裏の意味(演劇でいうaside、つまり裏セリフ)などという微妙な世界が出現する。だから「あんたなんかだいっきらいよ」という愛の告白も成り立ちえる。だが活字でそれができるか。SNSで子供がつくれるか。
第一に、そういうエネルギーを使うと、脳の容量からして、コミュニケーションできる人数には限界があるという。 自然界のさまざまな生物の脳の重さと、その生物がつくる安定した集団の所属固体数には一種の比例関係があるという研究がある。さまざまな生物の脳とその集団の規模をグラフにして、そこに人間の脳の重さを挿入してみると、適切な集団規模は数百人なのである。生物が小さくなるほど集団数は大きくなる。数千人なんて数に対応するのは、大腸菌ぐらいだろう。とにかく人間社会は大きくなりすぎたのだ。中国を見ろ。・・・・・などということか゛浮かんでくる。さあ、この文
褌子さん読んでくれんかなあ。
もっともFaceBookをコミュニケーションととるからよくないのかもしれない。あれは視聴者が反応すると数が出てくるテレビショッピングみたいなものかもしれない。そう考えればいいか。しかしそうするといったい何を売っているのかね。
2016年5月19日木曜日
FaceBook か・・・猫跨ぎ
Face Bookか。70過ぎの爺さんが嵌るのだから、大したものだね。詳しくは判らないので何とも言えないが、不特定多数のよく知らぬ人達と会話すること自体が、まず鬱陶しい。言いっぱなしのその場限りのやり取りで、すぐ飽きると思うが。一口に言って「漂流している」という表現がぴったりのメディアではないのかな。あまり言うと気分を害するかな。褌子氏のようにある思想信条を持つと、それを述べ賛同を募ることが、生きる目的と重なって来るのだろうね。ご苦労なことだと思うが、如何ともしがたい。人生いろいろ、好きずきというか。
褌子さんの消息 九州の熊
今年に入ってFBに凝っていた いまもほぼ毎日アクセスしている 結構いろいろのやりとりがあり面白いといえば面白い 一呼吸して こんなことしていて何になるんだろうとおもうこともあるが・・・
で ここでであったのが褌子さん すぐに「お友達」になりお互いに発言をやりとりしている
褌子さんいわく ほろほろ会はたかが20人弱 FBなら万単位の人数が対象 わたし(褌子さん)にはいま3千人強のお友達がいる 彼らを対象に自分の思いを発言すれば何十人からの賛同のこえがあがる と威勢がいい たしかにその通りである かれには 世の中こんな世界になってほしいという理想郷があり それを呼びかけることにわが命をかけているという生き様がてにとりようにわかるのである あるとき 愚問であることを承知で たまにはホロホロ会にも投稿してよ と投げかけたがもう投稿の仕方もわすれてしまったとけんもほろろであった
ということでわたしは扇動発言をするほどの理想の哲学があるわけでもないので ホロホロ会とのおつきあいはこれからも続けていきたいと思っています よろしくお願い致します
FBは暇人には楽しいが いろいろ疑問もないわけではない 国内だけで考えても百万人レベルのひとがアカウントを持っているだろう で このひとたちが思い思いに自分かってに投稿発言をする 発言は各人の個人のタイムラインという投稿画面に開示される 問題はこの発言をタイムラインに割り振る作業をだれがどのようにやっているのかというのがいまいちわからない 一説によるとFBというソフトを提供しているグーグルが ある作為で割り振り作業をしているとか その延長上に世界中の個人を思想傾向によって分類し 人類の世界制覇をもくろんでいるのでは という勘ぐりもないわけではない(多少わたしの独善が入っている??)
まあ今のところお遊びレベルで いまなんとかレストランでこんな美食を味わい中(写真付き) とか 中学校のクラス会で盛り上がり中 とか さくらの季節のころは さくら名所の紹介投稿 とか
イベント紹介などは結構ありがたいときもある
おひまと興味のある方はちょっと覗いてみては?
そうそう わたしが一時雲隠れしたのは このFBのせいだったのです ホロホロ会のブログとふたまたでやればよかったのですが FBをやりはじめると あっという間に時間がすぎてしまい ホロホロ会の方をさぼっていたのでした ごめんなさい
で ここでであったのが褌子さん すぐに「お友達」になりお互いに発言をやりとりしている
褌子さんいわく ほろほろ会はたかが20人弱 FBなら万単位の人数が対象 わたし(褌子さん)にはいま3千人強のお友達がいる 彼らを対象に自分の思いを発言すれば何十人からの賛同のこえがあがる と威勢がいい たしかにその通りである かれには 世の中こんな世界になってほしいという理想郷があり それを呼びかけることにわが命をかけているという生き様がてにとりようにわかるのである あるとき 愚問であることを承知で たまにはホロホロ会にも投稿してよ と投げかけたがもう投稿の仕方もわすれてしまったとけんもほろろであった
ということでわたしは扇動発言をするほどの理想の哲学があるわけでもないので ホロホロ会とのおつきあいはこれからも続けていきたいと思っています よろしくお願い致します
FBは暇人には楽しいが いろいろ疑問もないわけではない 国内だけで考えても百万人レベルのひとがアカウントを持っているだろう で このひとたちが思い思いに自分かってに投稿発言をする 発言は各人の個人のタイムラインという投稿画面に開示される 問題はこの発言をタイムラインに割り振る作業をだれがどのようにやっているのかというのがいまいちわからない 一説によるとFBというソフトを提供しているグーグルが ある作為で割り振り作業をしているとか その延長上に世界中の個人を思想傾向によって分類し 人類の世界制覇をもくろんでいるのでは という勘ぐりもないわけではない(多少わたしの独善が入っている??)
まあ今のところお遊びレベルで いまなんとかレストランでこんな美食を味わい中(写真付き) とか 中学校のクラス会で盛り上がり中 とか さくらの季節のころは さくら名所の紹介投稿 とか
イベント紹介などは結構ありがたいときもある
おひまと興味のある方はちょっと覗いてみては?
そうそう わたしが一時雲隠れしたのは このFBのせいだったのです ホロホロ会のブログとふたまたでやればよかったのですが FBをやりはじめると あっという間に時間がすぎてしまい ホロホロ会の方をさぼっていたのでした ごめんなさい
2016年5月16日月曜日
頑張って・・・猫跨ぎ
熊さんには脱帽だな。背筋がきちんとして負けてないのがいい。拍手だね。蜷川幸雄は八十歳で残念ながら逝ったけれど、ベッドには三冊のこれからやる舞台台本があったとか。意気軒昂、生涯現役だった。こうありたいものだ。
醤油バーは知らなかった。はじめて聞いたね。何だかんだ言いながら我々は醤油民族だな。成田に着いた外国人がそこはかとない醤油の匂いを感じるらしい。
そうそう、特に独り住まいの者には、使う量が少ないから醤油の酸化劣化が困る。ところが、キッコーマンから徳利形の200cc容器入りが出た。開封常温で90日持つというふれこみ。注いだあと密閉され、ヘッドスペースが生じない構造。これは優れもの。コストを考えるとよく踏み切ったとトライした旺盛な企業精神には感心する。もっぱらこれを使っている。醤油差しも不要になった。
醤油バーは知らなかった。はじめて聞いたね。何だかんだ言いながら我々は醤油民族だな。成田に着いた外国人がそこはかとない醤油の匂いを感じるらしい。
そうそう、特に独り住まいの者には、使う量が少ないから醤油の酸化劣化が困る。ところが、キッコーマンから徳利形の200cc容器入りが出た。開封常温で90日持つというふれこみ。注いだあと密閉され、ヘッドスペースが生じない構造。これは優れもの。コストを考えるとよく踏み切ったとトライした旺盛な企業精神には感心する。もっぱらこれを使っている。醤油差しも不要になった。
2016年5月14日土曜日
熊さん おひさしぶり・・・・・逸徳
なかなか大変な様子ですが、がんばっているようで。 おいらは大腸ボリーフを11回もとり、同じ医者に10回以上尻の穴を見せて、奇妙な親近感をいだいたりして・・・・
しかし温熱療法というのは初めて聞いた。理屈にあうなあ。きっと良い結果になることを期待しています。昨年は、ほろほろ会の九州上陸が挫折して残念でした。またお顔を拝見できる日を楽しみにしております。
さてお師匠。たれより醤油で思い出した。確か千葉は有名な江戸時代からの醤油の名産地ですな。一度いってみたいと思っているのだが、何か100種以上も醤油がならんでいる、醤油バー?みたいのがあると聞いた。 醤油は奥が深い。 でも大体は、家庭の醤油は酸化して黒ずんだ色になっているのを使っている。わがやもそう。 本当は醤油は別名「紫」とよばれているそうで、江戸前のおねえさんなんかが「紫をどうぞ」とだしてくれるのがいいなあ。うまい醤油を使いたい。
しかし温熱療法というのは初めて聞いた。理屈にあうなあ。きっと良い結果になることを期待しています。昨年は、ほろほろ会の九州上陸が挫折して残念でした。またお顔を拝見できる日を楽しみにしております。
さてお師匠。たれより醤油で思い出した。確か千葉は有名な江戸時代からの醤油の名産地ですな。一度いってみたいと思っているのだが、何か100種以上も醤油がならんでいる、醤油バー?みたいのがあると聞いた。 醤油は奥が深い。 でも大体は、家庭の醤油は酸化して黒ずんだ色になっているのを使っている。わがやもそう。 本当は醤油は別名「紫」とよばれているそうで、江戸前のおねえさんなんかが「紫をどうぞ」とだしてくれるのがいいなあ。うまい醤油を使いたい。
2016年5月12日木曜日
出戻り 九州の熊
長い間消息不明で申し訳ありません 皆さんの投稿はときどき当ブログを開いて読んでいました 勝手にこちらだけ孤高の存在で皆さんを天空から見まわしている感じ 自分がなにかえらい存在になったみたいで妙な気分を味わっていました 申し訳ない
取り合えず近況を少々
今年の1月から温熱療法という抗がん治療を受けていました 基本的には抗がん剤による治療です 抗がん剤を点滴で血管を通して体内の患部(わたしの場合は直腸)に投与し その部分を局所的に電磁線照射によって加熱する がん細胞というのは42度以上で死滅するとか これを繰り返し行うことで患部周辺のがん細胞を駆逐するという処方 結構好結果の実績を得ているらしい
医者も商売だから万一のことを考えていうセリフのパターンがあって いわく この処方及び投与する抗がん剤が有効かどうかは個人差がある しばらくこれをつづけ 顕著な効き目がないようであれば その時点で別の方向をさがします と
1回の治療は4~5日を要する 治療の間隔を3~4週間空ける ということで 約1週間で1セット これをほぼ1ヶ月毎にやる これまで4セット実施 あと2~3回で半年になるのでその時点で次のステップ(このまま継続または違う手法選択 もしくは回復ギブアップ) となる ギブアップのときはどうするかのこころの準備はできている 人生は運命に委ねる の心境です
インターネットで関連の記事をいろいろ読むが 要するに記述されていることはみな同じ 副作用とそれへの対処方法 自分の場合はやはり 吐き気が 一番の悩み それと味覚障害 なにを食べても美味いということがない これは生きている者として致命的だね 結果的に食が細くなり体重がどんどん落ちていく 筋肉量が減っていく 体力が落ちる 運動をしない 腹が減らない・・・ 完全に悪循環なり
と まあ泣き言ばかりになったけど それに負けないで前進の歩みを止めないのが熊さんのいいところです かみさんとよく雑談をするんだけど こうなったら 楽しいと思うことを徹底的に味わおう と
最近は 高齢者ゴルフの楽しみ方 を極めようと いろんなことを試している 飛距離を補う裏技 アプローチのマイテク パターの練習方法 そして快感の味わい方・・・ コースにでると 同年代の健常者に勝るテクニックが成功した時の快感をいっぱい味わっている うまくいかないときもある(こちらの方が実は多い)のでスコアはハーフ50前後になってしまったけど気にしない気にしない ラウンド終了後は すかっとしたショットや狙い通りのパットでパーをとったときの場面をあたまのなかで何回も繰り返し反芻するのである
まだいろいろご報告しなければならないことがいくつかありますが かみさんが食事だよ~ と呼んでいるので今回はこれにて つづく(と思います)
取り合えず近況を少々
今年の1月から温熱療法という抗がん治療を受けていました 基本的には抗がん剤による治療です 抗がん剤を点滴で血管を通して体内の患部(わたしの場合は直腸)に投与し その部分を局所的に電磁線照射によって加熱する がん細胞というのは42度以上で死滅するとか これを繰り返し行うことで患部周辺のがん細胞を駆逐するという処方 結構好結果の実績を得ているらしい
医者も商売だから万一のことを考えていうセリフのパターンがあって いわく この処方及び投与する抗がん剤が有効かどうかは個人差がある しばらくこれをつづけ 顕著な効き目がないようであれば その時点で別の方向をさがします と
1回の治療は4~5日を要する 治療の間隔を3~4週間空ける ということで 約1週間で1セット これをほぼ1ヶ月毎にやる これまで4セット実施 あと2~3回で半年になるのでその時点で次のステップ(このまま継続または違う手法選択 もしくは回復ギブアップ) となる ギブアップのときはどうするかのこころの準備はできている 人生は運命に委ねる の心境です
インターネットで関連の記事をいろいろ読むが 要するに記述されていることはみな同じ 副作用とそれへの対処方法 自分の場合はやはり 吐き気が 一番の悩み それと味覚障害 なにを食べても美味いということがない これは生きている者として致命的だね 結果的に食が細くなり体重がどんどん落ちていく 筋肉量が減っていく 体力が落ちる 運動をしない 腹が減らない・・・ 完全に悪循環なり
と まあ泣き言ばかりになったけど それに負けないで前進の歩みを止めないのが熊さんのいいところです かみさんとよく雑談をするんだけど こうなったら 楽しいと思うことを徹底的に味わおう と
最近は 高齢者ゴルフの楽しみ方 を極めようと いろんなことを試している 飛距離を補う裏技 アプローチのマイテク パターの練習方法 そして快感の味わい方・・・ コースにでると 同年代の健常者に勝るテクニックが成功した時の快感をいっぱい味わっている うまくいかないときもある(こちらの方が実は多い)のでスコアはハーフ50前後になってしまったけど気にしない気にしない ラウンド終了後は すかっとしたショットや狙い通りのパットでパーをとったときの場面をあたまのなかで何回も繰り返し反芻するのである
まだいろいろご報告しなければならないことがいくつかありますが かみさんが食事だよ~ と呼んでいるので今回はこれにて つづく(と思います)
2016年5月11日水曜日
とかく加熱し過ぎは・・・猫跨ぎ
記載のレシピ通りやったが、チンが長すぎだったね。卵がすっかり茹だってしまった。半熟くらいが良いのだろう。二分くらいか。
茄子は油を吸って、概ね旨くなるね。油との相性がいい。焼き茄子もあれは油の旨味だね。 しかし焼肉とか蒲焼きとかのタレが好きだね。ここは醤油でおさめたい。
牛肉とか豚肉とかステーキ用のを買ってきて、軽く塩胡椒してフライパンで焼く。これがどうしても焼きすぎになるんだな。表裏の表面が焼き色に変わった位で止めるのがいい。あとはアルミホイルにくるんで暫時放置。この操作で熱を内部に伝える。これでいい。とかく加熱し過ぎは味を損なうようで。
PS;もやしの件、再度やってみた。1分40秒とあたりをつけたら、卵は半熟、もやしから適度の水が出て、良い具合になった。うまいっ、という程ではないが まあ酒の肴の一品にはなるね。もやしはいろいろ使える。明太子をほぐして、もやしに和えるだけ。これも酒肴としていい。
茄子は油を吸って、概ね旨くなるね。油との相性がいい。焼き茄子もあれは油の旨味だね。 しかし焼肉とか蒲焼きとかのタレが好きだね。ここは醤油でおさめたい。
牛肉とか豚肉とかステーキ用のを買ってきて、軽く塩胡椒してフライパンで焼く。これがどうしても焼きすぎになるんだな。表裏の表面が焼き色に変わった位で止めるのがいい。あとはアルミホイルにくるんで暫時放置。この操作で熱を内部に伝える。これでいい。とかく加熱し過ぎは味を損なうようで。
PS;もやしの件、再度やってみた。1分40秒とあたりをつけたら、卵は半熟、もやしから適度の水が出て、良い具合になった。うまいっ、という程ではないが まあ酒の肴の一品にはなるね。もやしはいろいろ使える。明太子をほぐして、もやしに和えるだけ。これも酒肴としていい。
いやどうも・・・・・逸徳
さっそくの実験レポート恐縮。 水分はもやしからの水分で十分で、そのままの方がしゃきしゃき感が楽しめる。鳥ガラスープは味にこくをつけるために入れたが、好き嫌いである。卵を溶かないで入れているのは、黄身の固まったところともやしのしゃきしゃきのとりあわせで、溶いてかけたらただの卵とじになる。黄身の半熟ともやしのしゃきしゃきのとりあわせもいい。すこしチンの時間がながすぎたかもしれない。試行錯誤でやってくれ。「わけのわからんもの」というのがいい。 だいたい新しい食い物はわけのわからんものが多いだろう。ナマコを初めて食ったやつは勇気があったというが、あんなのホントわけがわからんな。
もうひとつ。ナスを皮をびーらーで剥いて、縦に3から4等分に切り、フライパンでさっとごま油で焼く。焦げ目がつく程度。そしたら弱火にして市販のかば焼きのタレをかける。たれがにつまる程度にして、よくナスをうらがえしながらからめる。 これナスのかば焼き。 うなぎが高くなったのでこれで気分を味わっている。 ワインにあう。 お試しを。
もうひとつ。ナスを皮をびーらーで剥いて、縦に3から4等分に切り、フライパンでさっとごま油で焼く。焦げ目がつく程度。そしたら弱火にして市販のかば焼きのタレをかける。たれがにつまる程度にして、よくナスをうらがえしながらからめる。 これナスのかば焼き。 うなぎが高くなったのでこれで気分を味わっている。 ワインにあう。 お試しを。
2016年5月10日火曜日
よく判らないものが・・・猫跨ぎ
報告をしなけりゃね。逸徳氏推薦の③のレシピをやってみた。もやしに卵を落として・・・というやつ。なんだかよく判らないものが出来たぞ。もやしとゆで卵を砕いたようなものの上に融けたチーズがどろりとかぶった形。汁っけがないがこれでいいのかな。鶏ガラスープの素が如何なる役割を有しているのか判らない。多少は水が要るのではないのか。そもそも本当に卵は丸のまま?解かなくていいのかな。
2016年5月3日火曜日
小津映画・・・猫跨ぎ
BSⅡで時々小津映画をやっていて、先日、「秋刀魚の味」を見た。小津安二郎の遺作らしい。
描かれているのは何と言うことのない日常の庶民の生活で格別盛り上がりのないまま終わる。 解説では「妻に先立たれた初老のサラリーマンと、婚期を迎える娘の心情を繊細に描いた父娘ものの名篇。長年小津作品で父親を演じてきた笠智衆による、娘を嫁がせる父の孤独と哀愁を漂わせ・・・」とある。
しかし感慨深い。描かれた世界が懐かしいというか、まるで別世界。製作が1962年(昭和37年)というから、我々が大学に入った年だ。この頃の日本はこんなだったか。考えてみたら、戦争の影がようやく薄れ、しかし、高度成長に入るちょっと前の、それなりに落ち着きを見せた時代だったのかもしれない。人と人の触れ合いが強いが同時にお互いに慎みがあった。人間が相対的に大きく、映画の主役を張れた時代。それから随分遠くに来てしまった。もうこんな映画は出来ないだろう。
高度成長という日本独特の事情を考えるのは早計すぎるか。欧米でもいま小津映画の評価がとみに高まっているとか。こういう時代に郷愁を感じる気分は向こうも同じなのかも知れない。それにしても、岩下志摩、岡田茉莉子、女優が皆綺麗だった。
そうか50年経ったわけだ。懐旧に駆られる―これまでも何度も繰り返してきたのかもしれない。
描かれているのは何と言うことのない日常の庶民の生活で格別盛り上がりのないまま終わる。 解説では「妻に先立たれた初老のサラリーマンと、婚期を迎える娘の心情を繊細に描いた父娘ものの名篇。長年小津作品で父親を演じてきた笠智衆による、娘を嫁がせる父の孤独と哀愁を漂わせ・・・」とある。
しかし感慨深い。描かれた世界が懐かしいというか、まるで別世界。製作が1962年(昭和37年)というから、我々が大学に入った年だ。この頃の日本はこんなだったか。考えてみたら、戦争の影がようやく薄れ、しかし、高度成長に入るちょっと前の、それなりに落ち着きを見せた時代だったのかもしれない。人と人の触れ合いが強いが同時にお互いに慎みがあった。人間が相対的に大きく、映画の主役を張れた時代。それから随分遠くに来てしまった。もうこんな映画は出来ないだろう。
高度成長という日本独特の事情を考えるのは早計すぎるか。欧米でもいま小津映画の評価がとみに高まっているとか。こういう時代に郷愁を感じる気分は向こうも同じなのかも知れない。それにしても、岩下志摩、岡田茉莉子、女優が皆綺麗だった。
そうか50年経ったわけだ。懐旧に駆られる―これまでも何度も繰り返してきたのかもしれない。
2016年5月1日日曜日
食べること・・・猫跨ぎ
逸徳氏は結構自炊やってるんだね。そうせざるを得ないことが、いつ起こるか判らない年齢だから結構じゃないですかね。実際心得のない人が意外に多い。不思議そうにこっちの顔を覗き込んで「本当にやっているの」と聞く御仁がいたが、呆れてものが言えない。男子厨房に・・ではあるまいが、自分の将来について何の想像力もない。
食事の前の儀式か。まあそんなにしゃちほこ張ることもないんじゃないかい。日に二度、粛々と食べればいい。昼は食べない事が多い。仕事もしていない爺さんが日に三度は食い過ぎだと思う。 大体パターン化してきて、特別なものは余り作らない。生来グルメでないからね。設定のレベルは低い。普通の煮物、焼き物、炒め物、鍋。
そうそう揚げ物は買ってくる。独り分作るのに油の準備、後始末は割に合わない。 例えばトンカツを一枚買ってきて、フライパンで玉葱を醤油、味醂、出し汁で煮てそこに載せ、卵を回して、カツ丼の出来上がり。
基本的には肉と魚を日々交互に食するのが大まかな原則。あとは野菜を心してとる。朝、野菜サラダはレタス、トマト、バナナ、オレンジを切ってどんぶりにいれ、チンして温野菜とする。体積は見事に減って、結構な量食べられる。
食事の前の儀式か。まあそんなにしゃちほこ張ることもないんじゃないかい。日に二度、粛々と食べればいい。昼は食べない事が多い。仕事もしていない爺さんが日に三度は食い過ぎだと思う。 大体パターン化してきて、特別なものは余り作らない。生来グルメでないからね。設定のレベルは低い。普通の煮物、焼き物、炒め物、鍋。
そうそう揚げ物は買ってくる。独り分作るのに油の準備、後始末は割に合わない。 例えばトンカツを一枚買ってきて、フライパンで玉葱を醤油、味醂、出し汁で煮てそこに載せ、卵を回して、カツ丼の出来上がり。
基本的には肉と魚を日々交互に食するのが大まかな原則。あとは野菜を心してとる。朝、野菜サラダはレタス、トマト、バナナ、オレンジを切ってどんぶりにいれ、チンして温野菜とする。体積は見事に減って、結構な量食べられる。
食うということ・・・・・ 逸徳
一人だろうが、集団だろうか、食うという行為について考えることがある。食事という行為は、個人の精神にとって、外界とのひとつの関係の仕方である。一種の儀式(ritual)であると思う。決して車がガソリンを入れるようなことではない。時にめんどうくさくなると、まあいいやという気分になり、後で洗うのが面倒だとばかりに、一人だけだと鍋から直接食ったりする。これは、きわめて危険な行為で、そうなると食がただの生存の維持行為だけになる。それが落語に出てくる、「つけもの食いたい? だったら塩とぬかと菜っ葉食って、頭に重しの石のせとけ」という小話だろう。
おいらは家で一人だけになり、一人で食う時も、特定の席に特定の形に食器を配置し、決まったさらをつかい、省略はしないことにしている。買ってきた食材も必ず皿にとる。そしてひとりでもポンポンと手をあわせる。これ明らかにひとつの個人的儀式であり、一種の文化的行為である。この場合自分がひとりであるかどうかということはあんまり関係しない。外界と自己の内面とのひとつのチャンネルが、味覚という鋭敏さを伴って開かれるという感じなのである。ひととしての生き方のアイデンティテイにかかわるのである。(おおげさな) これをやるのがめんどうになったら、精神状態がやばいと自分に言い聞かせている。こういうことの省略は、すべからく他の生活面の省略につながる。 そして生きていくのもめんどくさくなるに違いない。
もう一つ最近変わったこと。食材を買いにいって必ず熱量を見るようになった。(笑)1日2000Kcalは超えないようにと思う。それとタンパク質を必ず食う。卵だったら1日2個は食べる。血圧は低いので、成人病のほうは心配しない。 しかし、料理というのは実に面白い化学実験である。だいいち台所は基本的に科学実験室の機能を持っている。 それに料理自体、食材の熱処理、エマルジョンなどの界面化学、酵素反応、さらには浸透圧などの物理化学などが登場する。こういうことをもとにして何か話が創れないかなあと考えているのだが。
閑話休題。 レトルトの話が出てきたが、ほんとにレトルトはバカにならない。それにカレーも面白い。どういうわけか一晩作り置きしたほうがカレーはうまくなる。(だからカレーのCoco1番という店は工場で大量につくったカレーを店に配達する方式でもあじが落ちないそうである。不思議) これ、酵素がからんでいるのではないかなあ。それと「からい」と「しょっぱい」はちがう。カレーのからさは能の老化防止にはいいというが。さらに、自分でスパイスやコーヒーなんかいれてマイカレーをつくるともうやめられん。 からめにすると、焼酎のロックがあうのである。
ただし、カレーにはかならずトッピングを考える。カツとか、カキフライもいい。トマトなんかもいいが
まあなんでもいい。トッピングを工夫するとまあ「華麗なるカレー物語」が出来上がるだろう。うーむ昼はカレーにするか。
おいらは家で一人だけになり、一人で食う時も、特定の席に特定の形に食器を配置し、決まったさらをつかい、省略はしないことにしている。買ってきた食材も必ず皿にとる。そしてひとりでもポンポンと手をあわせる。これ明らかにひとつの個人的儀式であり、一種の文化的行為である。この場合自分がひとりであるかどうかということはあんまり関係しない。外界と自己の内面とのひとつのチャンネルが、味覚という鋭敏さを伴って開かれるという感じなのである。ひととしての生き方のアイデンティテイにかかわるのである。(おおげさな) これをやるのがめんどうになったら、精神状態がやばいと自分に言い聞かせている。こういうことの省略は、すべからく他の生活面の省略につながる。 そして生きていくのもめんどくさくなるに違いない。
もう一つ最近変わったこと。食材を買いにいって必ず熱量を見るようになった。(笑)1日2000Kcalは超えないようにと思う。それとタンパク質を必ず食う。卵だったら1日2個は食べる。血圧は低いので、成人病のほうは心配しない。 しかし、料理というのは実に面白い化学実験である。だいいち台所は基本的に科学実験室の機能を持っている。 それに料理自体、食材の熱処理、エマルジョンなどの界面化学、酵素反応、さらには浸透圧などの物理化学などが登場する。こういうことをもとにして何か話が創れないかなあと考えているのだが。
閑話休題。 レトルトの話が出てきたが、ほんとにレトルトはバカにならない。それにカレーも面白い。どういうわけか一晩作り置きしたほうがカレーはうまくなる。(だからカレーのCoco1番という店は工場で大量につくったカレーを店に配達する方式でもあじが落ちないそうである。不思議) これ、酵素がからんでいるのではないかなあ。それと「からい」と「しょっぱい」はちがう。カレーのからさは能の老化防止にはいいというが。さらに、自分でスパイスやコーヒーなんかいれてマイカレーをつくるともうやめられん。 からめにすると、焼酎のロックがあうのである。
ただし、カレーにはかならずトッピングを考える。カツとか、カキフライもいい。トマトなんかもいいが
まあなんでもいい。トッピングを工夫するとまあ「華麗なるカレー物語」が出来上がるだろう。うーむ昼はカレーにするか。
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