2015年3月28日土曜日

モンドリアン ・・・・ 猫跨ぎ

 
 モンドリアンは19世紀末から20世紀にかけてのオランダの画家。抽象絵画のはしり。こんな絵を見たことあるでしょう 


チュニジアのテロ事件の記憶がまだ褪せぬ間に、今度はフランス南部のドイツ機の事故か。それがとんでもない原因だ。もう何でもありになってきたな。このところ関西へは、我が家が成田空港に近いせいもあって、LCCで関西空港へ行く。別にLCCだからと言うこともないのだろうが、いやな気分だね。飛行機に限らず、どんな交通機関においても運転担当者には命預けます、だからどうしようもない。こういうリスクは覚悟して利用するしかない。

久し振りに、映画へ行った。「アメリカン・スナイパー」。主人公はイラク戦争へ従軍した海兵隊所属の実在の狙撃兵。160人を殺害したという、「伝説」といわれた人物だ。イラクでの市街戦がどんなものだったかよく分かる。その「伝説」が、エンドロールで知らされるとんでもない結末。まあ、興味のある向きはご覧あれ。クリント・イーストウッドは全く端倪すべからざる監督だ。
 

2015年3月21日土曜日

函館通信2-21・・・猫跨ぎ句鑑賞・・・仁兵衛

 北海道もだいぶ暖かくなって来た。特に函館はここの所雪が少なくなって街中では殆ど見る事が無くなっている。御彼岸の中日も穏やかであったしこれでは早いとこ冬タイヤを交換しないと溝がどんどん減ってしまう。

・ 探梅や立入禁止の中らしく
梅林の立入禁止区域となると何か事件でもあったのかな。
・ 降るといふ雪とはならず風呂熱き
フルとフロで先ず御洒落に出来た句だ。雪の冷たさとお湯の熱さの対比が面白さを加味している。熱過ぎる風呂には気をつけよう。準特選。
・ フランスパンの突つ立つてゐる日永
本当に日が永く感じられるようになって来ましたね。パンも只立っているだけ以外に何かをしたがっているのかもしれません。取り合わせの妙。
・ 鳥雲に入る深層水研究所
これまた空と海の底との取り合わせが実に楽しいね。函館山は渡り鳥の飛来が多いと言われるのだが中々出くわすまでにはいかない。一方海洋センターでは深層水の研究もやっているとか聞く。
・ 志ん生の出囃子春の波頭
出囃子は噺家各人それぞれ違うそうだが余程寄席へ通わないと判らないだろうね。上方の米朝さんのはどんな形の波頭だったのかな。特選。
・ 春燈や腸抜かれたる烏賊の透き
ここの所函館近辺では烏賊が極端に不良だとか。海水温上昇のためらしい。
・ 菱餅は三色モンドリアン画集
申し訳ないこの画家の事は全く知らない。
・ 春風邪や家中同じ電子音
きっとこの電子音は体温計の「ぴっぴ」だろう。ユーモアがあるね。
・ 夕よりも朝に淋しき紙風船
前日小さなお孫さんとでも遊んだ跡かな。
・ 登っては降りるほかなし春の山
低山であっても笑っている春の山は本当に人を飽きさせない。満足いくまで包まれていたらいいよ。しかし北海道では羆に注意が必要だ。

2015年3月18日水曜日

27.3月度 投句・・・猫跨ぎ

  作者の個人的事情は、読み手は知るすべがないから、全くことなった景を描いてしまう。これはしょうがないね。それが面白さであるけど。十三参りについては、その地理的条件、斜に構えの主体が誰なのかが重要な条件であってみれば、全くお手上げ。ただ、逸徳氏の評は当てずっぽうながらいいところをついている。
河川敷については、時事俳句というなら、前書がなければ、ちょっと無理だね。蕗の薹をちょっと工夫してくれるならとっかかりがあったかも知れないが。
  この惨劇はマスコミが流したイスラム国の残酷劇の影響だね。死刑執行を模している。しかし、この事件の加害者のみならず被害者の子供達の親はどんな連中なんだろう。想像を越える。

さて前置きがながくなってしまった。今月の私の十句。

・探梅や立入禁止の中らしく  
・降るといふ雪とはならず風呂熱き  
・フランスパンの突つ立つてゐる日永  
・鳥雲に入る深層水研究所  
・志ん生の出囃子春の波頭  
・春燈や腸抜かれたる烏賊の透き  
・菱餅は三色モンドリアン画集  
・春風邪や家中同じ電子音  
・夕よりも朝に淋しき紙風船  
・昇つては降りるほかなし春の山  

函館通信2-20・・・追補・・・仁兵衛

いやいや俳句は作者の手を離れると読者によって本当に別の世界に連れて行ってくれるものだね。一寸言葉と作者の気持ちを補足させて貰います。

・ 十三参り(詣)、猫跨ぎさんご指摘の通り京都の法輪寺の虚空蔵尊に詣でる事が元の様だがいわき在住の我が家からは茨城・東海村の虚空蔵尊に毎年子連れで護摩を焚いて貰いお参りをしていた。御参りの後は東海原電の脇を通り松林を抜け太平洋を眺めながら昼飯をひろげた。
 十三歳(満12歳)は難しい年齢に入りかける時であるが孫が今年この年齢に達して何となく息子より斜に構えている様に感じ句にしてみた次第。

・ 河川敷、今度の中学生が18歳に殺されたあの場所を強く意識している。TVで現場映像を見て子供の頃行ったあの多摩川の河川敷ではないか。その頃とたいして変化していない情景だ。ふきのとうは実際にはあの場所には生えないかも知れないしかし何か書きとめて置かなくては気持ちが治まらない。そんな思いであった。

お粗末。
  

2015年3月17日火曜日

27.3仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

急に暖かくなった。暖房はみな消し、コートも不要。20℃を越えたのではないか。

・ 囀りや落書きのあるなまこ壁
なまこ壁は漆喰で目地を盛り上げた壁で、独特の景観。その目地に落書きをした奴がいる。春の到来の一つか。
・ たらればの話はつづき鳥曇
株や保険の勧誘かな。結局はあの話もいつか彼方へ。
・ 海遠し十三参り斜に構へ
 この十三参りは七五三のあとの行事らしいが、西の風俗だね。恵方巻と同じく、じわじわと伝わってきたようだが、やっぱりピンとこないね。そんな感じを詠ったのかな。
・ 河川敷無言のままに蕗の薹
無言で通りすぎる河川敷。世に雑草はないと言う向きもあるが、まあ雑草だらけで特段感興もない。そこにおや、蕗の薹じゃないか。こちらも無言で貌を見せている。お互いに心通わせることのない存在同志、ときに気付く。ただ季節の移ろいに正直に従っているだけなのだが。そこに俳句の出番がある。
・ キャバレーの跡かたもなし春の雨
商売に栄枯盛衰はあるが、水商売は一般に腰が軽いね。駄目と思えば特に頑張らない。キャバレーなんかは最たるものではないか。
・ 未だ点かぬ降車ランプや弥生尽
これ乗合バスで、予定の停留所が次なのに、誰かが押してくれるのを待っている些か無精な一瞬じゃないか。あるね。しゃあない、自分が押すか、というわけだ。季語に合っている。  特選
・ 牛舎から伴奏ありて雪解川
雪解川が勢いよく流れている。ふと牛の鳴き声が伴奏のように、か。
・ 放射能解らぬままに土筆かな
そうだね、解らぬままに、山川草木は育っている。こいつは消えてゆかないんだね。予定調和の輪廻のサイクルに入ってこない。
 ・ シュプールの跡に雪崩のつづきをり
 本人は格好良く滑降しているつもりが、後から恐ろしいものが迫っている。我々の縮図だ。準特選
・ 黙祷のおわりの合図鳥雲に
「黙祷終わり」と、それとなく知らしめて終わる。故人はもう帰ってこないという気持がそのとき急に立ち上がる。

仁チャン句鑑賞・・・・逸徳

まあ、こむつかしいことをいいあうのは元気の証拠ということでご勘弁を。とはいえ、そういうこともしんどくなってきたなあ。まあ、仁ちゃんのお耳、ではないか、お目を汚さぬようやります。で、今月の仁ちゃん句を素人がえらそうに鑑賞・・・ 心にのこったのだけでご勘弁
 今回は変な話、老いというものを感じたというか、時間というものを感じた句があったなあ。
 ・海遠し十三参り斜に構え・・・・ 遠い海のイメージは、未来への広がりを感じる。これに十三参りがくっついたのが面白い。とはいえこのことば検索で初めて知った次第。少年のまっすぐな傲慢さは、たしかに未来を見据えている。ちなみに十三というとしはとても面白いと思う。たけくらべの美登利は14、厨子王が13、ロミオとジュリエットのジュリエットも13だ。13という年はまさにひとつの節目で、大人の始まりだなあ。つまりたいがいのことはわかるし、人生の不条理も悲哀も感じることのできるとしだ。嵐の海に出航する新造船という感じか。斜に構えざるをえないではないか。 特選
・シュプールのあとに雪崩のつづきおり・・・・ これもいい。シュプールという今をきりとって、その爽快感にひたるあとに雪崩の余寒だ。何だか今の世相にぴったり 準特選
・まだつかぬ降車ランプや弥生尽・・・・・これもいい。春のおわりにバスからおりなくてはいかんのか。うーむ。ドキドキするな。おいらの好きな詩人の作品を思い出した。紹介する。
アメリカの詩人ロバートフロストの作品「白い森の中で」の最後の部分である。
 

森はやさしく暗くそして深い

だが私には約束の仕事がある

眠るまでにはまだ何マイルかいかねばな

らぬ

眠るまでにはまだ何マイルかいかねばな
らぬ 
 
・黙祷の終わりの合図鳥雲に
・放射能解らぬままに土筆かな
・キャバレーの跡かたもなし春の雨
・たらればの話はつづき鳥雲
  ・・・・これらの作品、作者の意図はともかくとしてどうしても3.11を連想する。そこに出てくる愚かさや、悲哀や、怒りも。 原発を動かし、戦争の準備だって。こんなばかな国にあと何年かなあ。わかいやつらにこんな国は引き渡したくないが。

これから三日ばかり名古屋に孫の顔みにいってくる。 子どもはいい。幼稚園の子供もの声がうるさいというやつの心がしれん。ひばりの声みたいなのに。
     

2015年3月16日月曜日

函館通信2-19・・・新幹線・・・仁兵衛

何か難しい話が続いているがこの辺りで小休止してもよかろう。
北陸新幹線が金沢まで到達した。静かな金沢も今後観光客で賑わい静けさはなくなってしまうのかな。
 こちら北海道新幹線も来年同時期函館までやって来る。先日工事中の「新函館北斗駅」を今後の為に見ておこうと思い出掛けて来た。函館の地形をお解りの方も多いいかと思うが現在の函館駅は函館山との陸繋島の根元部分にあり新幹線を入れるには狭すぎる地形になっている。青函連絡船の時代に合わせて今の駅機能が発揮されていたといえる。しかし新駅は隣の北斗市の現在の「おしま大野駅」に併設されている。周囲は畑しかなく新駅から函館まで車か電車で約20分掛ってしまう。この駅の周りに色々な企業誘致をやっているものの全く集まらず現在レンタカー会社6件とタクシー会社1件だけだそうだ。しかし、周囲の広さ、山々の中に建つ駅の風景は気持ちいい気分であった。
 まあ新幹線が来てどれだけ雇用が増えるのか、函館から人が出なくなるのか期待はする一方東京まで5時間1分掛るのでは金沢の様には日帰りも難しく多くは望めないのかもしれない。この辺りの話は首都圏に住んでいる人には全く古臭い話としか映らないだろうな。この新幹線が札幌まで伸びるのは2030年予定だそうだが皆さん生きていてくれよ。
 それでは今月の10句そっと置いて行きます。議論御続け下さい。

・ 囀りや落書きのあるなまこ壁
・ たらればの話はつづき鳥曇
・ 海遠し十三参り斜に構へ
・ 河川敷無言のままに蕗の薹
・ キャバレーの跡かたもなし春の雨
・ 未だ点かぬ降車ランプや弥生尽
・ 牛舎から伴奏ありて雪解川
・ 放射能解らぬままに土筆かな
・ シュプールの跡に雪崩のつづきをり
・ 黙祷のおわりの合図鳥雲に





要するに・・・猫跨ぎ

  まあ、露骨な金儲けということではないね。人事もそんな馬鹿ではない。他者の心を忖度できる社員になって欲しいということだろう。それで色々なツールを探すわけだ。そこへ一見、科学的衣裳をまとったサイコロジー何とかが現れる。それらしいカリキュラムがあって、つまりプレゼンテーションは見事だからね。若手の人事課の連中はころりと騙される。で、やってみようと言うことになる。金儲け資本主義が悪いと、すぐレッテルを貼る癖が貴君にはあるが、そうではなく、アメリカのアメリカによる、如何にもアメリカ的な手法だといいたい。
  話は戻るが、取り乱し、人格を崩壊させるという件、禅の修行で似たようなことがあるらしい。初期の段階で悟った積もりになってうぬぼれることを野狐禅というが、そこを突破して更に深めてゆくと、例外的ではあるが或るものは、取り乱し、あらぬ言動をするようになる。その段階で指導者は、すかさず手を差し伸べ、窮地を救う。よくある陥穽らしい。つまりこういう混乱というか混濁というかは、特殊な精神活動に於いて、あると言うことだ。
他者の窮地に思いを馳せる、勿論大事なことだが、当たり前すぎて、殊更、強調することでもあるまい。よく判らないな・・・?

いいのこした・・・・逸徳

おいらが言いたかったこと。 人間の想像力についてである。 他者の視点にたつという想像力を働かせることに困難さを感じてしまう人間がいるということの驚きである。相手の立場に立つといったらもちろん自分の視点でそっくり相手の立場に移入するということではない。簡単な例をいうとたとえば、ある不幸な事件にぶつかってなやんでいるAさんがいるとする。ところがそれを見ているBさんからみるとその不幸な事件は、それほどのものではないと感じているとする。この時ふつうならBさんは、自分のその事件に対する評価はひとまずたなあげにしておいて、Aさんの立場にたちAさんの悩みの深さを想像してもっとも適切な言葉を選び、励ましたりするのがふつうではないだろうか。この場合Bさんにとって必要なのは、Aさんという人間存在を丸ごと理解しようとする想像力だろう。 これはたとえば俳句を鑑賞する能力なんかとどっかでつながっている。
 ところが、これができないのである。そういうBさんだと、Aさんの直面している事件に対する自分の評価が優先というよりすべてなので、Aさんの悩みが感じられない。したがって対話が成立しにくくなる。 つまりどこまでいってもBさんは自分の世界から出ていけないのである。おそらく俳句なんかつくれないと思うな。
 おそらく根は深いと思う。だがどうしてこういう人間がうまれるのか、今のところおいらにはすっきりと理解できない。おそらく一種の社会関係のdisorderだろうが。 しかしこのdisorderという英語はすごい。障害なんて日本語ではいいあらわせないものを含んでいる。 なんてったってorderがdisしちゃうんだから・・・・何いってんだかわからんだろうなあ。

ちと補足する・・・・逸徳

ロールプレイについてのお師匠の体験はまったくよくわかる。詳しいことはここではもうやめるがサイコドラマとロールプレイは似て非なるもので、出自もちがう。 サイコドラマは専門家の訓練をうけないと簡単にやれない。精神療法につかうくらいで、だからこそあまり一般的ではない。だがロールプレイは小学校の授業でも使うくらいなのである。ほんとはむちゃくちゃだと思うが。 まあこのことはこれくらいにしておきたい。

それよりも、心理学というものの扱い方についてのアメリカの特性ということについて感じていることを書いてみたい。 というよりも資本主義と心理学の関係というべきか。 アメリカ資本主義はプラグマティズムの影響というべきか、人間のこころを徹底的にものとしてあつかってきた。カエルの解剖みたいに心を俎上にのせて、いじくりまわしたのだ。 あとから問題となるような心理学の実験は
多くがアメリカで行われてきた。 したがって、感情的にいえば、アメリカは、というよりなんでも利益追求に利用してしまい、人間の尊厳なんてもうけにならんものはあんまり考えようとしないアメリカ資本主義はだいっきらいである。プラグマティズムを道具主義と訳した話があったなあ。
 したがって、ロールプレイを会社で研修でやるのは、心理学の悪用であり、それによって立派な歯車になる労働者はつくれても(そうなのだ、やつらは「つくる」のである)そこにいるひとりひとりの労働者の尊厳なんて考えない。 それはもうけに関係ないのだから。ナチスが心理学を悪用して大衆操作をしたのとあんまりかわらんのである。要するに独占資本主義はなんでも利潤追求の道具にする。ひとの心でさえも。
 かっておいらが目撃した例。あの世界的メーカーT社の話である。社内に「心理相談室」がある。そこにはカウンセラーと称する人間が駐在していて、社員の悩み身をいろいろと聞きアドバイスするという仕事をしていたそうだ。 で、当然ながら社員の悩みの中には社内の人間関係がある。特に、上下関係の悩みが多かったそうだ。そこでその相談室には、もうひとつ部屋があってそこに大きなビニール風船でできた、上司の人形がおいてあり、ストレスを訴えた社員に、上司の人形を竹刀でぶったたかせたそうだ。 この話、聞いたときぞっとした。何かおかしくないか。 ぶったたかせるというアイデアを考えた心理学者もおかしいし、何よりもそいつは傲慢である。しかしもっとぞっとしたのは、相談にきて「ああすっきりした」と現場にもどっていった社員だ。これでは機械からとりはずしたさびた歯車をみがいて、もう一回機械に組み込む光景ではないか。

 人間だから心が病むことはあるだろう。その時、誠実に患者の悩みに向かい合い、手をつくしてよりそおうとする臨床心理学の専門家がいることも間違いない。だが、そのすぐ横に、心理学的知見を使ってひとの心を利潤追求の道具としてもてあそぶ、おいらにいわせれば悪魔の手先みたいな心理学者がいることも確かなのである。この辺を論じると頭に血が上るのでやめておく。

心の時代だという。心理学関係の図書は本屋にいくと山積みになっている。だが、まちがいなくいえることは「心」が商売になる時代は、人間の尊厳にとっては、本当にいやな、暗い時代なのだということなのである。


 

2015年3月15日日曜日

role playing ・・・猫跨ぎ


サイコドラマと聞いて、昔の記憶を辿っていたら思い出した。はるか昔、管理職研修というのがあって何泊かの缶詰研修だった。その中にrole playing というのがあった。役割を替えて、その役割に成り切って演ずるというもの。そう、その研修で何人かが正常さを失い、おかしくなったという。人格の破綻といえば大袈裟だが。以降、この種の課目は廃止となり、従って私は経験していない。そのとき私の抱いた正直な印象を言えば、会社では労働の対価として給料は貰っている、しかしまるごと人格を君等にあずけた積もりはないという一種の怒りだった。
これは、戦後、アメリカから導入されたものだろう。背後にはプラグマチズムがある。はっきり言うが日本には馴染まないと思うね。自殺者がでたという。こんな人間がいるのかと不思議な印象を語っているが、おいおい、それは逆だろう。間違っているからこんな事故を起こすのだ。Self expressionの強いアメリカ人が好みそうなことだ。四十年弱会社生活をしたが、総括するに、この種の研修は一切身についていない。むしろ悪い印象しかない。いうなれば、仕事を通してしかほんもののスキルは得られない。人事の連中にはコンサルタントに法外な金を払うのはよせと言ったものだった。

2015年3月12日木曜日

不思議なもの 人間・・・・逸徳

お師匠がお水取りに感動するのも(なんとちょうど同じときに女房がそこにいっていた。あたりに美女はいなかったか・・・) 熊さんが、奥さんの美声にうるうるするのも・・・・ああ人間だなあと思う。なんでかというと、毎年その思いが深まるのだが、この世の中でやっぱり一番不思議で、よくわからないなあと思うのは、人間といういきものである。
 実は、演劇からはいって、演劇というからだでものを考えるような体験を心理療法につかう「サイコドラマ」という集団精神療法があるのだが、その心理療法の研究会に静岡でかかわって10年以上になった。で、その場で大変おもしろい体験を最近したので、紹介しようと思う。
 こころの病というのは実は、いまだにあんまりよくわかっていない面がある。自然科学的な意味で「問題の原因とメカニズムについて十分に理解されている」つまり盲腸やかぜと同じような病気(疾病 illness またはdisease)は、精神医学では「統合失調症」と「うつ病」ぐらいしかないのである。
 
だから、病気は英語ではdiseaseだが、いわゆる精神障害はdisorderを使う。 disorderという単語を眺めているといかにも心がこんがらがって、ぐちゃぐちゃになっている印象がある。この混乱状態がよく捕まえられず、群盲象をなぜるという状態で、それに対して「なんとか療法」といういわゆる心理療法は現在実に100種をこえるのだが、正直なところ信用できるものは数種類しかないだろう。(したがって、時々仲間といっぱいやるのは「飲酒療法」と呼び、酒は「液体抗鬱剤」といっているのだが、この療法は効果が持続せず、液体抗鬱剤は習慣性がある。過度の服用はよろしくない・・・・ジョーク)
 そこで、さまざまな精神障害を全体的に眺めてみると、これほとんど「他者との関係性のトラブル」が多いということがわかる。つまり社会的なのである。 だから精神障害を「かぜ」のようにその患者個人の問題としてだけながめていると、問題の本質が見えてこない。その人の環境や社会関係つまり集団の文脈の中でとらえなくてはならないのである。 集団精神療法という世界はここから始まり、まさに関係性そのものを素材にした演劇という世界の体験を精神療法という問題とむすびつけたのが、おいらのかかわっている「サイコドラマ」(心理劇)の世界なのである。
 で、話はここから始まる。今までは前段。 心理劇は患者(主役)と相手役とのドラマを即興劇にするということを中心に話を進める。(たとえば母子関係が原因の不登校だったら、その子と母親というように>) その中で、しばしば役割交換という手法を使う。たとえば、ある場面で母親と子供の役を交換して、劇を体験するのである。これは演技というからだの体験を通じて、相手の心理を理解するということを狙っているのだが、ここで、おいらは大変考えさせられる体験をしたのである。それは、どうしてもこの役割交換という手法がつかえないような性格の人がこの世の中にいるということである。 つまりどうてをつくしても相手の立場にたった演技ができない、そもそも相手の立場に立つという想像ができないのである。無理にやらせるとフリーズしたりしてしまう。こういう人は、通常の会話も困難な場合がある。相手の話を聞けないのである。話していても、結局は自分の話になってしまう。相手をこちら側に引き込むのである。 そしてこういう人はしばしば社会的には高学歴で知能が高いとされる人である場合が多い。 なんでこういう人が生まれてきたのか、明らかに一種のdisorderであり、自己愛の強い人なのだが、無理にそういう自分の性格を自覚させてしまったりすると、自殺してしまうこともあるという。
 こういう人がいるということを体験したとき、大変傲慢な言い方だが、「いったいなんでだ??」という驚きと、これも傲慢だが、顕微鏡下で新種の生物にぶつかった科学者のような気分になった。まったく、人間というのは底なしのなぞをもつ存在なのだなあ。 それが最近、一番おどろいた経験である。  おそまつ

2015年3月10日火曜日

心洗われる思い   九州の熊

「お水とり」ねえ。まだみたことがないが現場で体験すると厳かな気分になるんだろうねえ。最近はこういった伝統行事や茶道、華道そして音楽にこころ洗われる機会が多い。若い時は同じ場面に対してそれほど感動したという記憶はない。月並みの表現だけど加齢のせいだね。
先日当地の地域(市)で行う音楽祭があった。うまい、下手、が当然あるのだけどどのステージもここにいたる参加者のかかわりに思いを馳せなみだがでそうになる。ちょっとおのろけ気味だけどかみさんの歌ってるすがたをみてちょっと”うるる”・・。その日の晩飯はずいぶん盛り上がったのでした。

2015年3月9日月曜日

お水取り・・・猫跨ぎ

 三月六日、東大寺二月堂の修二会(お水取り)を見学してきた。天平勝宝四年(752年)から始まり今日まで一度も欠けることなく続く行事で、毎年三月一日から十四日までの二週間行われる。今年が1264回目という。欄干で松明を振り回す「お松明」(三十分ほど)の終わったあと二月堂に上り、内陣に入って、悔過法要の様子を拝見する機会を得、深い感銘を受けた。

同じ事を毎年行い、1264回繰り返してきた。すごいことだ。この存在感はまったく揺るぎない。個性だ、新規性だ、現代性だ、などとのご託は消し飛ぶというものだ。
奈良に来て、多くの仏像と対面するが、いつも印象はおなじ。古代の人の貌の強さ、存在感だ。戒壇堂の広目天、多聞天でもいいし、法華堂の日光菩薩、月光菩薩でもいい。実に清清しい。翻って現代人が失ったものを思う。何と自信なげで、貧相になってしまったことだろうか。

さて、芭蕉もお水取りを参拝し、一句遺している。
〈水取りや籠りの僧の沓の音 芭蕉〉の句碑が二月堂の下にある。見学に先立って、東大寺上野長老の法話でも、本句を引用していた。
ところが、多くの俳句テキストを見ると「籠りの僧」が「氷の僧」となっている。以前からの論争らしい。岩波書店、新潮社、小学館本しかり。加藤楸邨の「芭蕉全句」では、論争は認めつつ、「野ざらし紀行」も「氷の僧」とあるから、これで決着と言い、にべもない。「こもり」と「こほり」、書き写しの間違いもあろうに。
  私はといえば、「籠りの僧」派だ。本内陣で行われる法要は、動と静に分ければ、動であり、内実にエネルギーがこもっているもの。とても「氷の僧」という静的なものではない。まあ、この辺はいいか。いずれにせよ、貴重な経験をした。

2015年3月1日日曜日

直線性・・・猫跨ぎ

  直線についてちょっと付け足す。水平線で気づいたが、大自然にある直線。水平線は最たるものだが、地平線、瞬間的であるが流星の跡、稲妻などかな。これらは自然というより超自然とでもいうべきものか。
中東で砂漠と天空の単相構造同士の二項対立も心理的には直線だ。唯一神が生まれる素地とはよく言われること。超越的な崇高な唯一神を仰ぐユダヤ、キリスト、イスラム教の源はまさに直線思考だ。
  日本の神社のルーツという明日香の三輪神社。神体は三輪山で社の裏の森だ。森はフラクタル構造。面白いのは入口にある鳥居は直線構造そのもので、これがないと超越性を演出できないのだろう。
登山家の今井通子のふと洩らした話が印象的で妙に忘れない。山に無性に行きたくなるのは、都会の直線のかたまりに疲れて、自然の多様な曲線に癒されたいのではないかと思っている、と。付け加えると、この人は時々、哲学的なコメントをいうので面白い。
戻ると、戦争は人間の産んだ最も直線的なものではないかと思った次第。