2015年3月12日木曜日

不思議なもの 人間・・・・逸徳

お師匠がお水取りに感動するのも(なんとちょうど同じときに女房がそこにいっていた。あたりに美女はいなかったか・・・) 熊さんが、奥さんの美声にうるうるするのも・・・・ああ人間だなあと思う。なんでかというと、毎年その思いが深まるのだが、この世の中でやっぱり一番不思議で、よくわからないなあと思うのは、人間といういきものである。
 実は、演劇からはいって、演劇というからだでものを考えるような体験を心理療法につかう「サイコドラマ」という集団精神療法があるのだが、その心理療法の研究会に静岡でかかわって10年以上になった。で、その場で大変おもしろい体験を最近したので、紹介しようと思う。
 こころの病というのは実は、いまだにあんまりよくわかっていない面がある。自然科学的な意味で「問題の原因とメカニズムについて十分に理解されている」つまり盲腸やかぜと同じような病気(疾病 illness またはdisease)は、精神医学では「統合失調症」と「うつ病」ぐらいしかないのである。
 
だから、病気は英語ではdiseaseだが、いわゆる精神障害はdisorderを使う。 disorderという単語を眺めているといかにも心がこんがらがって、ぐちゃぐちゃになっている印象がある。この混乱状態がよく捕まえられず、群盲象をなぜるという状態で、それに対して「なんとか療法」といういわゆる心理療法は現在実に100種をこえるのだが、正直なところ信用できるものは数種類しかないだろう。(したがって、時々仲間といっぱいやるのは「飲酒療法」と呼び、酒は「液体抗鬱剤」といっているのだが、この療法は効果が持続せず、液体抗鬱剤は習慣性がある。過度の服用はよろしくない・・・・ジョーク)
 そこで、さまざまな精神障害を全体的に眺めてみると、これほとんど「他者との関係性のトラブル」が多いということがわかる。つまり社会的なのである。 だから精神障害を「かぜ」のようにその患者個人の問題としてだけながめていると、問題の本質が見えてこない。その人の環境や社会関係つまり集団の文脈の中でとらえなくてはならないのである。 集団精神療法という世界はここから始まり、まさに関係性そのものを素材にした演劇という世界の体験を精神療法という問題とむすびつけたのが、おいらのかかわっている「サイコドラマ」(心理劇)の世界なのである。
 で、話はここから始まる。今までは前段。 心理劇は患者(主役)と相手役とのドラマを即興劇にするということを中心に話を進める。(たとえば母子関係が原因の不登校だったら、その子と母親というように>) その中で、しばしば役割交換という手法を使う。たとえば、ある場面で母親と子供の役を交換して、劇を体験するのである。これは演技というからだの体験を通じて、相手の心理を理解するということを狙っているのだが、ここで、おいらは大変考えさせられる体験をしたのである。それは、どうしてもこの役割交換という手法がつかえないような性格の人がこの世の中にいるということである。 つまりどうてをつくしても相手の立場にたった演技ができない、そもそも相手の立場に立つという想像ができないのである。無理にやらせるとフリーズしたりしてしまう。こういう人は、通常の会話も困難な場合がある。相手の話を聞けないのである。話していても、結局は自分の話になってしまう。相手をこちら側に引き込むのである。 そしてこういう人はしばしば社会的には高学歴で知能が高いとされる人である場合が多い。 なんでこういう人が生まれてきたのか、明らかに一種のdisorderであり、自己愛の強い人なのだが、無理にそういう自分の性格を自覚させてしまったりすると、自殺してしまうこともあるという。
 こういう人がいるということを体験したとき、大変傲慢な言い方だが、「いったいなんでだ??」という驚きと、これも傲慢だが、顕微鏡下で新種の生物にぶつかった科学者のような気分になった。まったく、人間というのは底なしのなぞをもつ存在なのだなあ。 それが最近、一番おどろいた経験である。  おそまつ

0 件のコメント:

コメントを投稿