2015年3月9日月曜日

お水取り・・・猫跨ぎ

 三月六日、東大寺二月堂の修二会(お水取り)を見学してきた。天平勝宝四年(752年)から始まり今日まで一度も欠けることなく続く行事で、毎年三月一日から十四日までの二週間行われる。今年が1264回目という。欄干で松明を振り回す「お松明」(三十分ほど)の終わったあと二月堂に上り、内陣に入って、悔過法要の様子を拝見する機会を得、深い感銘を受けた。

同じ事を毎年行い、1264回繰り返してきた。すごいことだ。この存在感はまったく揺るぎない。個性だ、新規性だ、現代性だ、などとのご託は消し飛ぶというものだ。
奈良に来て、多くの仏像と対面するが、いつも印象はおなじ。古代の人の貌の強さ、存在感だ。戒壇堂の広目天、多聞天でもいいし、法華堂の日光菩薩、月光菩薩でもいい。実に清清しい。翻って現代人が失ったものを思う。何と自信なげで、貧相になってしまったことだろうか。

さて、芭蕉もお水取りを参拝し、一句遺している。
〈水取りや籠りの僧の沓の音 芭蕉〉の句碑が二月堂の下にある。見学に先立って、東大寺上野長老の法話でも、本句を引用していた。
ところが、多くの俳句テキストを見ると「籠りの僧」が「氷の僧」となっている。以前からの論争らしい。岩波書店、新潮社、小学館本しかり。加藤楸邨の「芭蕉全句」では、論争は認めつつ、「野ざらし紀行」も「氷の僧」とあるから、これで決着と言い、にべもない。「こもり」と「こほり」、書き写しの間違いもあろうに。
  私はといえば、「籠りの僧」派だ。本内陣で行われる法要は、動と静に分ければ、動であり、内実にエネルギーがこもっているもの。とても「氷の僧」という静的なものではない。まあ、この辺はいいか。いずれにせよ、貴重な経験をした。

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