同じ事を毎年行い、1264回繰り返してきた。すごいことだ。この存在感はまったく揺るぎない。個性だ、新規性だ、現代性だ、などとのご託は消し飛ぶというものだ。
奈良に来て、多くの仏像と対面するが、いつも印象はおなじ。古代の人の貌の強さ、存在感だ。戒壇堂の広目天、多聞天でもいいし、法華堂の日光菩薩、月光菩薩でもいい。実に清清しい。翻って現代人が失ったものを思う。何と自信なげで、貧相になってしまったことだろうか。
さて、芭蕉もお水取りを参拝し、一句遺している。
〈水取りや籠りの僧の沓の音 芭蕉〉の句碑が二月堂の下にある。見学に先立って、東大寺上野長老の法話でも、本句を引用していた。ところが、多くの俳句テキストを見ると「籠りの僧」が「氷の僧」となっている。以前からの論争らしい。岩波書店、新潮社、小学館本しかり。加藤楸邨の「芭蕉全句」では、論争は認めつつ、「野ざらし紀行」も「氷の僧」とあるから、これで決着と言い、にべもない。「こもり」と「こほり」、書き写しの間違いもあろうに。
私はといえば、「籠りの僧」派だ。本内陣で行われる法要は、動と静に分ければ、動であり、内実にエネルギーがこもっているもの。とても「氷の僧」という静的なものではない。まあ、この辺はいいか。いずれにせよ、貴重な経験をした。
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