2016年8月11日木曜日

『記憶』

        『 記 憶 』          
                                                 西沢昭裕
          Ⅰ

 父親が朝から
「困った困った」といっている。
 母が朝の味噌汁をつくる手をとめて
「あんちゃん(長男)が出て行くしかない」ときっぱりという。
 父が
 「あんちゃんが気の毒だ。困った困った」とまたいう。
 戦争がすんで数年たったころ、農家の長男が戦地からちっとも帰らないので戦死したものとあきらめた親が、次男を長男の嫁と結婚させて子どもができたころに、ぼろぼろになった長男が戦地から帰ってきたのである。
 仰天した両家の親たちが、うちの父に朝早く相談にきたものらしい。
 「戦争で左手なくして帰ってきたのに、あんちゃん、かわいそう…」と幼な心に涙ぐんだ記憶がわたしにもかすかにある。
 いちばん幼いころの記憶。
 やがて、わたしの両親も亡くなり新潟の山村のその農家の悲劇もとっくに忘却のかなたに去って、わたしは当時の父母の年齢をはるかにこえる年になった。

         Ⅱ

 もう五年前のはなしになる。
 わたしの知り合いの下請け業者が
「従業員の山本義男が無籍者で困っている。千葉の臨海部の企業の仕事に住民票がない山本だけが入れない」と相談にきた。
 家庭裁判所で就籍手続きしてもらえばいいではないかと簡単に考えて、わたしは山本に会ってみた。
 彼は年のころ六〇才くらいにみえた。
 山本は寡黙な男であるが、会話も字を書くこともきちんと出来るひとなのに生年月日も覚えていない。自分の名前と父親の作治という名前、それと横浜の保土ヶ谷の小学校に通っていたことだけをかすかに記憶に残しているだけなのだ。
 ふたりで千葉の家裁の就籍係に相談に行くと、確実な記憶や身分を証明するものがないと戸籍をとるのはむつかしいという。
 わたしの友人が山本は健忘症ではないかとアドバイスしてくれた。精神科医を訪れたところ
「たぶん小さい時に両親と離されるなどよほど辛いことがあったのでしょう。解離性健忘症です」と診断書を書いてくれた。
 その診断書をもって地裁を訪ねてみた。年配の判事さんが別室で本人にいろいろ質問していたが、司法の職権で横浜市の保土ヶ谷区の全ての小学と中学に「山本義男という生徒が在籍したことがあるか」という照会をしてみると約束してくれた。
 待つこと一ヶ月以上。
 山本義男という名前の児童が在籍していたという小学校が出てきたと連絡が地裁から入ったのである。
 ふたりで地裁にかけつけると、古ぼけた学籍簿のコピーをみせられた。
 「父兄欄」に「作治」となっているではないか! さらに住所と生年月日が薄っすらではあるが読みとれる。
  山本は初めて知る自分の生年月日に
「想像していたより年食ってるなあ」と苦笑いしている。
 しかし、世の中には同姓同名も多いし父親の名前が記憶通りだとしても万一の山本義男ちがいの可能性を完全には排除できないと家裁はあくまで慎重なのである。
 カーナビではその住所が出てこない。市販の地図でもグーグルマップでもダメ。わたしは山本と保土ヶ谷区××町×丁目××番というその住所を朝早く千葉を出発して訪ねてみることにした。
 八月はじめの暑い日だった。
 ××町×丁目をぐるぐる歩き回ってもどうも地番表記がちがうのである。
 町会長宅を訪ねると、八〇才過ぎにみえる町会長は
「ここら辺は昭和二〇年五月二九日の横浜大空襲で焼け野原になりまして、大勢のひとが死にました。
戦後はなんども区画整理があったので、すっかり地番は変わっています。区役所に相談してみなさい」という。
 保土ヶ谷区役所へ行くと女性の係が課長とも相談して、古い資料を引っ張り出して××町一帯の地番が戦後どのように変遷してきたか書き出してくれた。おかげで古ぼけた学籍簿記載の住所地番が現在では何という住所地番なのかが正確にわかってきた。職員が親切に動態地図もコピーしてくれた。喜び勇んで住所地へ向かう。
  ところがやっと探し当てた地番は二百坪もある貸し駐車場だった。駐車場管理人の不動産屋の看板があったので電話してみたが
「昔のことはわからない。地主の名前も教えられない」とそっけない。
 がっかりした山本とわたしは汗だくとなって駐車場の日陰にペッタリ座りこんでしまった。自販機の冷たいジュースがこんなに美味しいと思った事はない。
 ふたりで元気をとりもどし駐車場周辺の聞き込みをはじめた。
 留守宅も多く在宅の年配者も、けげんな顔で
「さあ~五〇年以上も昔のことは・・」、と首をひねる。
 だんだん陽もかげってきた。
 「いったん千葉に帰り、この地番の登記簿謄本とって出直そうか」とわたしが弱音をはきだす。しかし山本は
「ここまで来た以上もうすこしがんばる」といいはる。
 そして、ついに僥倖が降ってきたのだ。
 三〇軒目くらいで年配の夫婦が玄関に出て来て、ご主人が
 「あの駐車場の土地は戦争後は孤児院でしたよ。米軍の慰問のバンドがよく来たので子供だったわたしも覚えています」というではないか。
 「孤児たちが火遊びして火事で閉院になりました。地主さんは近くの浄明院さんです。住職のお母さんがくわしいはずだから電話をしてあげましょう」
 少し坂道を下った浄明院に行くと住職の母親が玄関で待っていてくれた。
 「土地を貸していた孤児院の経営者の息子さんが福岡に健在ですよ」と、昔の地代入金を墨で書いてある大福帳を引っ張り出してきて、そこに書いてある電話番号に電話をしてくれた。
 電話の向こうでは、
「孤児院を経営していた両親も亡くなり、孤児たちの名簿は火事もあってもうありませんが、横浜空襲で親をなくした大ぜいの孤児を預かっていた。
 山本さんの年令だと戦災孤児ではないようだが何か事情があってうちに来たのでしょう。裁判所に証言してあげますよ。孤児たちがわたしらと一緒に遊んでいたXX小学の校庭は浄明院の隣りです」とまで言ってくださるではないか。 
 もう間違いないと山本とわたしは握手した。
 「きっと山本さんの籍がとれますように仏様にお祈りしてあげましょう」と住職の母親が励ましてくださり、帰ってきた息子の住職さんにお茶をごちそうになって、お寺の隣りの校庭に行ってみた。 小学の校舎は統合でもうないが校庭だけが残っている。
 「ここで遊んだこと思い出した?」ときくと、山本はしきりに首をかしげて何もいわない。
 やっと涼しい風がでてきて夕闇せまる校庭に二人で立ち尽くした。
  ―――――
 以上の顛末を書いて家裁に提出したら山本の戸籍が決まった。
 おめでとうございます、本籍はどこにしますか? と判事が聞くので、わたしの自宅の住所にしてもらった。
 あれから、もう五年もたってしまった。

          Ⅲ

 今年の夏。
 山本から久し振りに電話がきた。
 電話の向こうで「思い出しました」としきりに言っている。
 根が口下手な男だが話の内容を要約するとこうだ。
 数日前、千葉港に七夕の花火を見に行った。
  花火をみていると、子どもの時にさんざん聞かされた母親のはなしを記憶の底の底からふと思い出したというのである。
 山本の母はやっぱり終戦の年の五月二九日の横浜大空襲の戦災孤児だったのだ。
  毛髪が燃えるほどの大やけどだったが家族のなかでひとり生き残った。孤児といっても十五か十六才だったという。当時「傷痍軍人」といわれた身体の不自由な元日本兵に拾われて掘っ建て小屋でいっしょに住んだ。
 ふたりは戦後の闇市時代にオンボロなリヤカーでクズ拾いをやって食いつないだ。空襲の跡地から金属類を掘り出し、農家の壊れた農機具などをもらってきて金にかえた。朝鮮戦争のはじまるころ、くず拾いも景気がよくなり義男が生まれた。
 しかし、この両親はけっきょく婚姻届も義男の出生届もださなかったのだ。
 「爆弾のせいで大やけどしたんだよ」と母は義男に同じ話をきかせたという。空全体から降りそそぐ焼夷弾の恐怖が母親から幼い義男にも伝わったのかどうか、ドーンと頭上で炸裂する花火をみて、突如、山本の幼時の記憶がよみがえったのだ。
 そして義男が小学に上がる前に、その母親が突然いなくなった。いや死んだのかもしれないが、山本は思い出せないという。
 身体の不自由な父は幼い息子を育てられず浄明院近くの孤児院に預けたのである。
 ―――――
 幼時の記憶をついにとりもどした電話の向こうの山本に、わたしは
「よかったなあ」と言おうとしたがなぜか言葉が出てこなかった。
  戦地で生きのびて妻のもとにやっと帰ってきたというのに、妻が弟の嫁になっていたという、あんちゃんのことが突然わたしの脳裏によみがえってきたからである。

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