ああ、良いご質問ですね。
俳句は、作者の主観そのもので、他者の目を斟酌していたら碌なことはないですね。同時に、一旦作者から離れて発表されたものは、もう読み手のもので、どう解釈されても作者は一切文句は言うべきでないというのも事実。
俳句は17音という最も短い文芸。徹底的に刈り込んで、省略をきかせているから、解釈が複数に分かれるのも当然という宿命を負っている。とくに特別な体験をベースに作句した場合はそうなってしまう。それを避けるために作句したときの状況を「前書き」で付記したりする。
とはいえ、何となく判るという共通の地盤はお互いに意識しているつもり。この辺は、曰く言い難いところですね。う~ん、何を言っているのかね。
猫跨ぎさん、早速のレスポンスありがとうございます。ご説明はわかりました。俳句同好会のようなところで作品を発表してお互いに批評しあう、という場面が目に浮かびます。全く一人で句作を楽しむということもありなんですかね。その時の創作の動機づけはどうなっているのかな、というもやもやが少しのこりますが・・・。 九州の熊
返信削除結社に属さずに独りで句作を続けている人は勿論います。俳句人口のかなりは、そうでは。たしかに俳句の出自がみんなで行う連句だから、いわゆる連衆が集まっての句会で巧拙を批評し合うのがあり得べき姿なんだろうけれど、作句の原点は個人の創作活動が前提というのも揺るぎのない事実。大体、正岡子規は連句が大嫌いだった。つまり西洋の文学概念からして、皆でワイワイなんて文学じゃない。恐ろしく後進的だという主張ですね。
返信削除子規は個人の営為であるべしと言って今の俳句を確立したわけ。
しかし、連句も新しい文学の有り様だと見直されていて、連句愛好家は増えている。それどころか、西欧はで連句に倣って、連詩が集団で行われるくらい。
話を戻すと、作句の動機は、知的好奇心、創造への飢渇というか、生きている実感の自覚、等々、それは絵画、写真、なんかと余り変わらないのではと思う。創造の場は勿論独りですよ。しかしねえ、相当の習練を経た人でないかぎり、自作を発表して第三者の意見を仰ぎたいと言うのは自然の流れでしょうね。結社に入らない場合でも、新聞俳句欄、雑
誌、ネット、その他、緩い何等かの集まりへの投句、そういうのは沢山ある。(猫跨ぎ)