俳句議論に九州から参戦。お元気で結構ですな。10月にご尊顔を排するのを楽しみにしております。しかし、それにしても面白い。すこしずつ年取っていくそれぞれのいい感じの精神風景が垣間見えるようで、それでいてあまり悲壮感がない。嬉しいですな。
閑話休題。この10年以上静岡で、サイコドラマという心理療法の研究会に参加しています。この療法、一定の効果があり、専門機関などでも使われているのですが、どういうわけか一般市民にもひらかれた研究会としては、名古屋や神奈川がつぶれて、東京大阪間では、われわれの静岡だけになりました。そんなわけで月1回のワークショップですが、最近は遠方からの参加者も出てきました。サイコドラマというのは集団精神療法のひとつで、グループの中で、何かメンタルヘルスに問題を感じている人が自分から立候補して、その問題が即興劇の形で展開されていき、その体験を通してより健康なレベルに止揚されていくものです。 関心をお持ちの人がいましたら、「静岡サイコドラマ研究会」で検索して、我々のHPをご覧ください。
で、先日のワークショップで初めて妊娠し、あと1か月で出産予定のお母さんが、サイコドラマをやりました。これがとてもよかった。見ている人も幸せになりました。 そこで感じたこと、その1。生きていく中で出会う「不幸」はそれこそ千差万別で、ひとつとして同じものがない。だからその不幸の当事者がどんなにつらいかということは、横から見ている人には本当はなかなかわからない。いや、実はほとんどわからないことが多い。だから余談だが、「うん、わかるわかる」という言葉は実は無責任で、おいらはこの言葉だけは簡単に口にしてはいけないと思っている。 ところが、どういうわけか、「幸福、あるいは希望」というものは、誰にもわかる。感じる。そして、そういうものは命の輝きみたいなもので、周囲の人をも楽しくさせて、ちからをわけ与えてくれる。 今回の出産予定のお母さんと、まだ生まれてこない赤ちゃん(サイコドラマではこの赤ちゃんの役もちゃんと出てくるのです。)のドラマは、本当に楽しく明るいものを周囲に与えてくれた。なんてったってやっぱり赤ちゃんは希望なのだから。
そこで、その2ですが、ドラマの後の議論でこんなことか話題になった。 近くに幼稚園ができるという話がもちあがったある町で「子供の声がうるさいから」という理由で、幼稚園の建設反対運動が持ち上がった。ところが、この子供の声が、まるでひばりの鳴き声のようだといって、全然うるさいといわず、かえって、その声から力をもらっているという人もいる。命の輝きなのだ。
これはいったい何だろう。同じ子供の声がうるさいという人と、楽しいという人。どうしてこういう違いが出てくるのだろう。ちなみにおいらはひばり派である。うるさいと思った経験はない。
同じような話。我が家の近くに公園があり、時期になるとすざまじぃせみの鳴き声がする。これがうるさいといって、市役所に文句をいいにいったり(市役所も困ったろうなあ) 殺虫スプレーをもって木にかけようとした人があらわれた。だが、おかしいことに次の日は、まるで馬鹿にしたように、より一層激しいセミの声であった。 そして、一方では、この鳴き声がうるさいとは全然感じないで、セミの短い命に共感し、俳句なんかひねっている人がいる。 この違い何だろう。
思うに人が、周囲の世界とどのように向かい合って、かかわるかということは、まさにその人の過去の総体によって決まるのだろう。面白いなあ。
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