2014年9月11日木曜日

追加・・・・逸徳

お師匠のレスポンスを読んで思い出した。こういう唄がある。 「生きるという 哀しきことを 我はする 鳥も草木もみんなするなり」 なんとなく覚えている作品だが、作者はよくわからん。もしかしたら、自作かもしれん(笑)

でなんとなく前からおもっていたが、なんでおいらは俳句がうまくつくれんかなということについて、要するに「五七五」では、何か言い切れないのであるということを感じてしまうのだ。そのもうちょっとという心残り、腹の中にあって出たがっているもやもやが「七七」になるのかなあ。(何か便秘の話に似ている。)つまり和歌のほうがぴったりくる。
  「五七五」は、要するに絵だ。画家なんだな。うまい句ほどその絵がはっきりと立ち上がってくる。「無人バス来て引き返す雲の嶺」 これなんか、見事である。思わずスタジオジブリの絵を連想した。しかしそこから何を感じたり思ったりするのは、もう読者の仕事なのだろう。だから自解というのは、あまりやらんほうがいい。
  そこでその読者の思いに、もうすこし作者からのメッセージをつなげたくなり「七七」が乗り出してくるような気がする。 だから俳句づくりは五七五で止めてあとはもう知らん、煮て食うなり焼いて食うなり勝手にしろとケツをまくったようなところがあるのに対して、和歌づくりは「もうちょっと俺につきあえ。おいらの気持ちはこうなんだ」と、お子様ランチみたいなサービスをやっている感じもある。 なので「無の美、引き算の美」などという日本芸術の伝統が俳句につながるのは何となくわかる。
・折鶴を開ければ白紙昼寝覚   これもいい。連想する。なんで白紙なんだ、ほんとは何かそこにメッセージがあったんじゃないか。あるいは何かのメッセージを作者は書いておきたかったのか。 それは昼寝の夢につながらんか。 だいたいなんでおり鶴を開けようとしたんだ・・・・などなど。 そこからまったく別の読み手のものがたりが立ち上がってくる。そしてその物語の広がりの先に、哀しい生がある(ような気がする) うーん、わからんくなった。

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