2014年11月20日木曜日

おひさしぶりで・・・逸徳

なにか変なのだ。確かにこういう感覚(といっても時々蜃気楼のように身のまわりに立ち上るのであって、しじゅうこうではないが。)は20年くらい前まではなかった。
 
 
自分が、ぶよぶよとした薄い膜のようなものにつつまれている。その外側の世界でおこっていることは、同時並立的で、ガザで少年がイスラエル兵の銃に撃たれて死んでいくのも、札幌のホテルでお師匠がスタバでぼうっとして、来し方行く末の感慨にひたっているのも、隣の主人が認知症になり、施設に送られていったのも、アベノミクスをさけぶ首相の顔がどうも品がなく見えるのも、九州で熊さんが、褌子氏の詩の投稿に感動をおしつけるなとむくれてみたりするのも(かわいい) みーんな、膜の外で起こっているのだ。そしてそれはおいらと主観的に、同距離で進行している。この膜の内側はひとりである。だーれもはいってこないし、原理的にはいってこられない。ああ、この膜がどんどん厚くなっていったらいわゆる離人症というやつになるのかなあ。

 だからかもしれないが、最近まったく怒らなくなった。大きいことでばかばかしいことが進行していても、もうおいらにはどうしようもないから、勝手にやってくれという気分になってしまうし、身近なことで、ばかばかしいことがおきても、それが直接おいらに被害がおよばない限り、関わるエネルギーがわいてこない。どうかむこうにいってやってくれという気分になる。そんなことにかまっているほどこちらには残されている時間はないのだ。そして、そういうのを見ていると、ああ生きるということは哀しいことだなあ、と同情したくなる。ひとの愚かさはやはり哀しいのである。
 何だか生物的なエネルギーレベルが低下しているようなのだ。 だからアフリカのジャングルで百獣の王のライオンが、うおーっととどろくようなほえ声をあげても、そのあとでじゃんグルがしーんとなったら、きっとライオンはさびしさにおそわれるのではないか。ああ、これがおいらにとっての老いの形なのだろうか。

あらゆる外部情報は、いったんこの膜を濾過してはいってくる。ところが、予想もしないような形でこの膜がほころびることもある。たとえば、孫のような若い世代が必死で頑張っているテレビ番組をみたり、あかるい碧空の下で、幼稚園のこどもたちが、生のエネルギーをいっぱいにあふれせてはしりまわっているのを見たりすると、突然涙が出てきて、思わず狼狽するのだ。膜の向こうから、感情の津波が突然ほころびを通して侵入してくるのである。 そこで、ちと安心もする。ああ、心の感動のチャンネルはちゃんと稼働していると。

で、残された時間をどうしようかと思う。それを時々考える。ひとりで散歩していた時とか、真夜中にふろにはいっている時など、とんでもないときにこの問が頭のなかに反響する。なんだかしんどいなあ。 双葉社で出した「自死という生き方  須原一秀」という本がある。これ問題のある本で、哲学者が考えに考えて、自らの哲学的事業として、65歳に自死するまでを書いた本である。ちと危険な本だが、日常性の中で眠くなったら、めざめのコーヒーにいいぞ。

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