2014年11月22日土曜日

タイトルをわすれてた・・・逸徳

人生かくあるべしか。・・・・実をいうとそういうことはあんまり考えたことはない。もちろん、自分の中では考えてきたと思うが、それを人様にいうつもりもない。だいたいそんなことのために勉強するという気はない。かたがこるではないか。勉強というのは、好奇心のなせる行為だろうよ。何かのための勉強はおもしろくないよ。好奇心がおとろえた時、人はおしまいになる。そういう気がする。
ある人が真摯に人生いかにあるべきかと考えて、ひとつの結論に至ったとしよう。そのプロセスは自分自身の生を豊かにしていくためにとても大切なことだ。だが、それが物理法則のように客観的事実かどうかはわからない。ただその人にとっては、主観的な真実だろう。そして、そのようなものは、「わたくし」と「あなた」ではあきらかにちがう。このような主観的真実を客観的事実と混同することで、うんざりするほどのことばの戦争がくりひろげられ、人は疲弊する。あんまり生産的とは思えない。 これが昔、中川先生がいった「人類の通弊事」というやつだろう。 演劇「ラマンチャの男」の中に「事実は真実の敵だ」というセリフがでてくる。まさに同感。 そして、ひとはこのようにして、その主観的真実を生きる。それがその人の「ものがたり」であり、それはどんなものがたりであっても、ものすごく面白いし好奇心をかきたてられる。それはおそらく芸術の起源にもかかわる。

 
 
だから、おいらの今の心持としては、自分の主観的真実にしたがって、他人の主観的真実を批判や攻撃はしない。 それは愚かしい。 必要なことは謙虚であることだ。「あなたの主観的真実をきかせてください」と、その人の語りに耳を傾けることだ。そして、自分自身の主観的真実が、真実であるかどうかは、まともな思考力のある人なら、つねに若干の疑いを持つのはふつうであるだろうから、そのような他者の主観的真実から、自分の現在の生き方に肥料になりそうなものがあったらそれをだまってぬすみとればいい。全然あわなかったら、そういう人は敬してとおざかる。

ただしこのような考えは、共同作業としての討論を無視しているわけではない。おのおのの主観的真実の最大公約数をもとめようとするのが、社会の成り立ちのスタートだろう。そして、弱者の物語にしっかりと耳を傾けるのが、政治の役割だろう。

安倍さんに品がないことは同感である。というより今の保守層に品がない。いつも思うのだが、日本の資本主義の歴史における渋沢栄一や、めざしの朝食で有名になった土光さん、あるいは歴代宰相の中で指折りの読書家だった大平さん、そしてマックスウエーバーとまではいかなくていいから、今のハゲタカのような独占資本に対して、きちんと批判する思想家はいないか。とにかく、がっくりするほど品がない。こういうやつらが国を動かしているのかと思うと、若い人たちがかわいそうである。
 

で、そんなことを考えていたら面白い論文にであった。プレシデント9月号の野田数氏のコメントである。彼いわく「あと10年で自民党員の9割が他界する」というのだ。ムラ社会に支えられた、超高齢化現象。つまりじいさんばっかりがいばっている世界だということである。しようがない。死ぬのを待つか。

閑話休題 お師匠 キャンバスの上に自画像は書けん。そんなおっかないこととてもできん。自画像と自覚して自画像を描くというのは、気持ちの悪い自己愛ではないか。精神分析では、分析家はその資格をとる前提として、必ず自己分析というのをやる。ながいとそれに2年以上かける。そんなおっかないことはいやなので、そういう世界に首をつっこむのはやめて逃げ出したんだよ、おいらは。







 

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