2014年12月31日水曜日

今年は早かった・・・猫跨ぎ

今年は速かったなあ。何か加速度がついた気がするね、このところ。
さて、逸徳氏の文章を読み返しているが、どうも噛み合わんなあ。全般にどうでも良いことに捕らわれていないか。
  現状肯定派は退歩だ。まあそうだろうね。日本は特に外圧で心ならずも振り回されて来たから、大体、頑迷な保守など存在しえない。国中上げて右往左往してきたここ百年じゃないか。健全な保守など希いたいくらいだ。
権力を握った者が目の敵にするのが社会主義だ、というのも古いね。そういう対立構造はもうないんじゃないか。最も頑固な保守主義者は社会主義を標榜する人達だと思うくらいだ。
  もっとも奇妙なのは、〝「そういう考えでうまくいった例が今まであったか・・・」
という言い方がある。しかしこれは変だ。自然科学でまったく新しい発見があった時、そういうことは今まであったのか、と聞くのはナンセンスだろう。今までなかったから新しいのであり、いいかえれば革新というものは常に前例がないのが当然であって、もし前例があればもう革新とは言い難いと思う。〟   の下りだね。
  いつまで待てばいいのかね。百年河清を待つ、という言葉があるが。いままで成功しないと言うことは、考え方に根本的な欠陥があるからと考える方が、自然じゃないかな。
永久機関、例えば氷を吐きながら進む船―これだって確率は無限小に小さいが、「自然科学」的には可能だ。じっと、待ちますか。
むかし、或る古典的なマルクス主義者が、日本がソ連でなくアメリカに占領されたのはかえすがえすも無念であった。と嘆いた。アメリカの存在がなければ、世界はスムースに社会主義化されて、永久平和の楽園になったと思っていたのではないか。北朝鮮指導部はそう思っているかもしれんな。
大晦日に無粋な話で恐縮だが、まあ、これも業かも知れないな。何だか、来年もこんな調子のような気がするが。この辺で。

2014年12月26日金曜日

無謬性・・・猫跨ぎ


無謬性(間違ったことはしませんでした、これからも)について考えたい。共産党について、どうしてもついて行けない特性だ。

日中の間の大きなトゲの尖閣領有権問題。野田内閣が国有化を決定し、中国が猛然と反発し今に至っている。実はこの問題が持ち上がったとき、志位委員長が、日本国有化は当然とし、もっと中国に強く当たれと主張した。アレ、そんな旗幟を鮮明にしていいのかい、と危ぶんだ。当然、共産党は今もその立場なのだろう。

鳩山由紀夫という不思議な政治家、政界を引退し文字通り宇宙人だが、彼は中国にも言い分はある、という立場だ。今、日本では受け入れられない意見だが、案外この意見が将来意味を持つかも知れない。

かなり遠い将来、アメリカの存在感が薄らぐと、中国は台湾確保の前章として尖閣を取りに来るかも知れない。したがって鳩山の意見で沈静化しておいた方が総合的に良かったのではないかと私は思っている。共産党はこの意見にはもはや乗れないわけだ。委員長発言の手前。しかし唯一つ方法がある。あのとき、指導者に間違いがあったとして、彼を処断する方法だ。かくして党としては無謬性を継続できる―つまり、無謬性とはそういうことなのだ。この話、おかしくないか。しかし志位さんは勇み足だった。ポピュリズムに足を取られたと言うべきだろう。

 

ではおいらも参戦を・・・・逸徳

教育の本質的目的は何か、若い教師に問われて、しばらくの間何人かで議論したことがある。文化の伝承とか、次世代の育成とかそんな公式論ではなく、まさに本音でいうと教育の目的は何なんだ。
 
結局おいらはこう思う。歴史において、あらゆる意味において現状肯定は退歩のはじまりである。
現在というものに何の問題もないという状況はまずありえない。そこで、現状に対して、アンチの対案を出すこと。そういう営みがないと歴史は基本的に前に進まない。そのような努力の結果、古いものは退場し、新たな芽が芽吹き、未来が創られるのだろう。これ基本的なパターンである。したがって、何等かの形で、現実を批判し、あらたなものを求め作り出そうと努力する人間をうみだすこと。これをやや抽象的な意味も含めて、かりに「革命家」となづけることにする。そこで、おいらから見て、教育の目的はこうなる。それは「たったひとりでいい。一人の革命家を育てることだ。」と。ただし、この言葉だいぶ手垢にまみれているのでいるので、在来のことばのイメージはすててほしい。 考えてみると、結局のところそういう教育をどっかでやろうとしてきたのがおいらの教師人生だった。あるいは、生き方のスタンスといってもいい。ちとかっこういいか。しかし、そう考えていないと苛烈な現場で精神の健康を保つのに困難を感じていたのも事実なのだ。

さて、権力をにぎったある勢力があるとする。そうするとその対極に、その権力がつくりだした現実を否定して変革しようとする対極の勢力がかならず生まれる。ここでは混乱するので宗教は横におく。で、そういう勢力が生まれると、権力は自らを防衛するために必ずそういう変革勢力を攻撃し弾圧し、抹殺しようとする。それはある意味で当然の反応だ。一方で弾圧される側も当然、必死で組織を防衛しようとする。これまた当然。そして、近代においてはその典型的な例が社会主義と権力の側との戦いである。
保守権力は、社会主義者を弾圧し、抹殺しようとする。それは深く、広範であり、苛烈であり、微にいり細に渡った。 古いエピソードを思い出す。(社会主義ではないが)自由民権運動に手をやいた明治政府が「火付け、強盗、自由党」と、反政府思想を犯罪と同一視して、弾圧したのを思い出す。
そして、我々の社会においては、それは見事に成功した部分がある。日本人の精神構造の奥底までも、ある種の「空気」が浸透したのだ。おいらの故郷でのおいらがむかーし体験したエピソード。典型的農村社会である。「赤の家の前は息を止めて駆け抜ける」 コレラと同じレベルになったのだ。そこの長男が戦死した。そこで隣人から言われたことば。「これで天皇陛下に申し訳ができる」
 
・・・・・笑いごとではないのである。こういう何十年もかかってつくりだされた「空気」は、宗教のレベルに達し、そう簡単には、その空気を払い捨てられないだろう。そしてそれは一種のバイアスになって、現代人の心の奥底にも沈殿していないか。いろんなところでそういうバイアスを感じてしょうがない。
 
そうするとどうなるか。客観的にみれなくなり、まず「否定」の立場に立とうとして、その論理があとからくる。これは相当のインテリでもそういうことがある。無の状態で話が聞けない。一種の非科学的状態に陥る。それはまだおいらの中にもある。告白するが。

 
 たとえばである。共産党への批判の中に、「そういう考えでうまくいった例が今まであったか・・・」
という言い方がある。しかしこれは変だ。自然科学でまったく新しい発見があった時、そういうことは今まであったのか、と聞くのはナンセンスだろう。今までなかったから新しいのであり、いいかえれば革新というものは常に前例がないのが当然であって、もし前例があればもう革新とは言い難いと思う。
 

もっとも、社会主義が権力を持った例はないとはいいきれない。チリのアジェンデ政権は、合法的に成立し、アメリカの支援のもとで軍部クーデターに倒された。キュウバがながいあいだ、孤立した中で、どういう社会を作ったか、キチンと検証されなくてはなるまい。ちなみにキューバの医療は中南米では最もレベルが高いそうだ。
 
社会主義の例がないわけではない。ただそれは、よってたかってつぶされてきたのだという気がする。

 
共産党への批判の中に、民主集中制や反主流派の扱いについての言及がある。確かにこれは同感する部分があるが、それも歴史的過渡期における組織防衛の観点からはやむを得ない面もあったのかもしれない。 しかし、時代が変わった。もうそういうことではやっていけないだろう。共産党が脱皮を求められているのはそういう面だとおもっている。 つまりもっと開かれた組織にしないと反主流派の扱いから血も涙もない組織というバイアスがつくられたり、民主集中制はそのまま一党独裁のイメージになってしまうかもしれない。

ふるい共産主義のイメージがただよっているように見える。二段階革命論なんて、もう歴史の本にしか残っていないのではないかな。おいらは今の共産党に共鳴はするが党員なんかではない。
ただ、今の共産党のいうことをキチンと聞かないとフェアではないようにみえる。

 権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗するといったのはだれだっけ。権力側にも共産党にもそういう時期や組織的間違いはあったと思う。したがって、保守派の共産党批判を聞いていると「よくいうよ。どのつらさげていってるんだ。目くそ鼻くそを笑うなよ」とつぶやきたくなる。そのほとんどは雑事である。
本当に大切なことは、多くの雑音の中から、自分の頭で一番大切と思うことをみつけることだ。そういう点でメディアリテラシーが大事だと思う。 ホントなら新聞はふたつも三つも読めといわれたがかねがないのでできん。
 



 
 
 

『麦秋』   ・・・ 映画

 昔の白黒映画をのんびりと観た。昭和26年の小津安二郎『麦秋』
 鎌倉の中流家庭。老夫婦と息子夫婦と孫ふたり。それに年頃をとっくに過ぎた娘の原節子がちっとも結婚しないので一家がやきもきしている。次男は出征したまま帰ってこないのでもう死んだのだろうとあきらめている。
 娘はいい縁談をみんな断るのだが、近所に妻を亡くした40才過ぎの子持ちの男が母親と暮らしている。この母親の杉村春子が「冗談だと思ってきいておくれ。あなたみたいな娘さんがうちへ、もし来てくれるとうれしいのだけどねえ」と用事に来た原節子についおしゃべりしてしまう。
 「おばさん、私はちっともかまわないんだけど…」と原節子がいうので杉村春子がこんどはびっくり。実家の老夫婦、兄夫婦は「なにもわざわざ苦労することないのにねえ」とこぼすが本人が決めてきたものはしょうがない。
 ・・・というあらすじ。戦争がすんで五、六年たって日本人もやっと落ち着いた生活ができるようになったんだなあ。由比ケ浜がひねもすのたりのたりと波打っている。子犬が一匹砂浜で遊んでいる。
 終章、遠くの白壁の旧家をバックに一面の麦畑の穂がゆれている。ゆっくり流れる白い雲。麦秋なのである。平和っていいなあ。

あのなあ・・・猫跨ぎ


あのなあ、こういうビラを投げ込む感覚は、もうやめにしないか。聞きたいのは投稿者の生の肉声だ。折しも海の向こうから問いかけがある。偶然にも私の疑問と重なっているが、真っ向から立ち向かって欲しいな。マルクスのことばではなくてさ。ホントのところ、俺も判らんのだよのひと言でもいいんじゃないか。その方がはるかに胸を打つ。

「この道しかない」というけれど・・・ 褌子

 五十嵐仁先生の『転成仁語』で、第三次安倍内閣を「大惨事安倍内閣」と一刀両断。
《これほどのジレンマと難問を抱えていながら「この道しかない」というのは、すでに安倍首相が解決能力を失っているからです。実際には「別の道」もあるのに、その道を見つけるだけの能力がないから「この道」しか見えないのです。
 見る力がなければ見つけることはできません。他の選択肢や別の解決策を見つけられないほどに統治の力や政策能力が衰えてしまったのが、今の自民党であり安倍首相なのです。》
 毎日新聞夕刊で不破哲三さんが
《そもそも2大政党制は歴史が生み出すもの。アメリカの共和党と民主党も、イギリスの労働党と保守党もそう。日本は違う。人為的に2大政党制をつくるなんて無理ですよ》

蠟梅が咲いていた     ・・・ 褌子

 いちばん好きなマルクスのことば
『弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとって忌まわしく恐ろしいものである。なぜなら、この弁証法は現存するもの(資本主義社会をさす)の肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、できあがりの社会制度をも運動の流れのなかで、したがってまた経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである』
マルクスは『資本論』第一部あとがきで「弁証法の特質」をこう書いた。
 資本主義社会は人類の歴史のなかで生まれるべくして生まれたものであるが、あくまで人類史の経過的な一段階であって、やがて必ず没落しより高度な発展段階の社会へと交代する必然性があると。
・・・・などと、難しい顔して庭に出たら蠟梅が咲いていた。

2014年12月24日水曜日

函館通信2-13・・・猫跨ぎ句鑑賞・・・仁兵衛

12月も25日ともなるといよいよ今年も終わりかと強く感じる様になるね。
所で熊さん鳥インフルだが人にだけでなくアシカやオットセイにも感染の疑いが出たそうだ。
 
 
道内(確か釧路)の飼育設備で感染予防のために水槽の周りに鳥が止まって糞をされないような工夫をしているニュースがありました。本当に渡り鳥は俳句の題材にも多々なるけどそれ以上に何かと賑わしてくれそうに思います。

さて猫跨ぎ句の鑑賞に入ろう

・ドロップの薄荷が好きで秋深む・・・以前ドロップの缶の句が確かあったな。あの頃の佐久間ドロップは高級品だったな。

・表示板の全便欠航秋深む・・・ここんとこ本当に多かったね。

・漏斗より油落ちゆく寒夜かな・・・かなり気温が下がって油の粘性が上がったと思われる。

・半地下の古書肆の奥の秋灯・・・上五に半地下を見つけて来て据えたのが面白い。

・あたたかな雨仏飯に茸飯・・・「・・・雨」/「仏・・・」と切れている。仏飯から立ち上る湯気を仏様は食べるんだそうだ。句の技巧もさることながら雨と飯との取り合わせが素晴らしいと感じた。特選。

・とつおいつ疎開の話衣被・・・皮のついたままのゆでた里芋、つるりと皮から剥がれて口に入る、何とも云えん快感だ。疎開の人には廻って来たのかな。

・日捲りの粗方減つて冬旱・・・いわきでは冬旱の感じは良く解ったがどうも雪が四六時中あると感覚がずれてしまっている。

・冴ゆる夜のギリシャのワイン零したる・・・何かいわくつきのワインだったのかな。

・地獄絵の縁は金色雪催・・・絵の中が暗く、縁が明るい金色、外は雲が重く垂れ込めどんよりとしている。なんだか複雑な心理状況下に置かれているのかとも取れる。準特選。

・支倉常長冬麗の小脇差・・・冬麗の柔らかさに対し小脇差の刃の硬さの比較が面白い。どこかで常長展でもやっていて鑑賞していそうだな。





2014年12月21日日曜日

米国在住 堀口君からの投稿     九州の熊

堀口君からのメールと添付資料をコピペしてお伝えします。
直接投稿をトライしたけどうまくいかなかったので、たまたまメール交換したことのあるわたしのアドレスにアクセスしたのだと思います。
直接投稿の手順を念のため堀口君には伝えておきます。うまくいかないときはだれかにフォローをお願いするかもしれません。

以下、堀口君のメール文

九州の熊さん、ご無沙汰しております。
お元気ですか?
御嬢さん御夫妻は、まだ米国在住ですか? 又、機会があったら会いたいですね。

私の方も相変わらず、今年は Christmas, 新年 共に、休暇の計画もあまりなく、ブラブラしております。

ところで、数日前、暇に任せてHorohorokai に投稿を試みたのですが、うまくいかず(日本で作った Google Blogger に米国からの投稿に問題があるようです)その内容を Copy したのを、Attach しました。
別に、投稿したい訳では ないですが、一時、褌士さんと、。。。(忘れた)の掛け合いの様な,長--い投稿を読み,他の高分子の連中がどう思っているのか興味があり、書いてみました。
 
九州の気候はどうですか?
お互いに健康に気を付けて、年相応に頑張りましょう。
 
Let's Keep in Touch.
堀口淳夫

初めてホロホロ会への投稿を試みます。投稿者名は、Junzo (淳に3男の三) 、たまたま暇な時に絵を描く時に使う署名です。英語が基盤のPC なのと、適切な日本語が年のせいもあって出なく、かなり頑張って書いています。
最近の投稿では、衆議院選挙中だからでしょうか、政治、選挙に関する話題が多く、特に現役の共産党員さん, その昔シンパさん (Sympathizer = 同情者 、共鳴者) の長いentries を読ませて頂きました。で、ちょっとブツブツ書きます。
確か, 我々が学生の頃から、数年にでも、共産党が日本の政権を握ると確信、宣伝し、その半世紀後の今も、それを信じておられるのには、驚嘆と、尊敬すら感じます。
皆さんから師匠と慕われている猫跨ぎさんの少し前の entry での信仰との比較のsuggestionは、さすがに非常に的を得ていると思います。“信じるものは救われる….奇跡を信じる”ですか。
一つの政党、宗教を信じ, 生きがいすら感じられておられるのは、大変結構なことですが、ひとつ気になるのは、自己の思い通りにならない場合、他の政党、宗教を信じている者は、知性に欠け、悪者であると宣伝する習性でしょう。自党の大局的な政策を明確にせず、与党の政策には全て反対し、与党公明党 (この党は私も大嫌いでしたが) の党員は、地面を這いずり回っていると表現するわけです。民主主義革命が第1段階の目標であるならば、もっと抱擁力のある政党、党員でない限り、知性に 欠ける一般民衆の票は得られないでしょう。
昨日、米国とCubaの国交が正常化する一歩を、半世紀後に踏み出したようです。米国に亡命した年老いたCubanは大反対、若いCuban は大賛成と、ここでも歴史、世代を感じさせられます。
いま世界に存在する共産国は、ソ連崩壊後は、中国, Cuba, Laos, 北朝鮮 & Vietnam の5ケ国ですが、日本の共産党は、どのような政治形態を踏襲したい,持とうと思っているのですか?(Oxford University study reported that North Korea adheres most strictly to communist principles among them)
それとも、2段階革命論に転換後、又時世に合わせて、もう一度転換するのですか? 
あ、もう一つ。“日本の国会議員の数はけっして多くない。欧米諸国に比べて人口比にすると少ないことを付記したい”は米国に関しては間違い。日本の国会議員の数は衆参合わせて717人、米国はHouse of Representative/Senator (日本の衆参同等) 合わせて535人ですが、現在、米国と日本の人口比は2.5倍以上(319.3 vs 127 million)、日本の国会議員の数は米国に比べて人口比にすると3.3倍以上ですね。
ま、資本主義国在住のジジイ、素人の感想なので、あまり気にしないで。
皆さん、健康で良い年をお迎えください。

26.12 投句・・・猫跨ぎ

丁寧にご返信いただき感謝。御党の地道な活動は勿論承知をしているし、日頃敬意を禁じ得ない。ただ述べられた大半は、私も概ね承知をしていることだ。私なりに共産党とは50年ほど、貴兄と重さ深さは比較しようないが、関心をもって付き合って来たつもりだ。全くの素人ではない。先に私が述べた事は澱のように溜まっていることを再度呟いて、終わりとしたい。

さて、今月の投句に移ろう。

ドロップの薄荷が好きで秋深む                                               
表示板の全便欠航秋深む                                           
漏斗より油落ちゆく寒夜かな                                                  
半地下の古書肆の奥の秋灯                                                      
あたたかな雨仏飯に茸飯                                           
とつおいつ疎開の話衣被                                           
日捲りの粗方減つて冬旱                                           
冴ゆる夜のギリシャのワイン零したる                                                  
地獄絵の縁は金色雪催                                              
支倉常長冬麗の小脇差                                               

 

2014年12月20日土曜日

みなさん読んでね。日本共産党という政党について・・・・  褌子

 日本の共産党はソ連共産党から何十年もひどい干渉をうけてきた党なので、巨悪のソ連共産党が1991年についに崩壊したときは大歓迎した。また中国共産党からは戦後まもなくは「武装蜂起せよ」としきりに言ってきて、一部の党員が山村工作隊などをはじめて大打撃をうけた。文革のときは「日共は中国人民の四つの敵のひとつ」と荒唐無稽な攻撃をうけたので文革の終焉を大喜びした。長年、断絶していた中国共産党のほうから謝罪があって、関係も今は回復している。尖閣は日本の領土ですよ、と志位委員長が中国大使館に通告にいったが、友好的に議論ができる関係は維持している。私自身は今の中国の実態は、プラグマチズムというか国家資本主義みたいではないかと内心思っている。中国に知人がいて国保も年金もあまり整備されていないことに驚いている。いまは日本よりも貧富の差がひどいのではないか。当の中国は「市場経済を通じて社会主義にいずれは到達するのだ」といっているようだからこれは気長に隣国を見守るしかない。ベトナムやキューバは社会主義を標榜しているが一党独裁なので必ずしもうまくいってないのではと私自身はみている。キューバに旅行に行ったひとは「国民は貧しいがみんなのんびりと生活を楽しんでいるよ」というのが特徴。教育と医療が無償だと人間の表情はよくなるということだろう。私は夫婦でベトナムに旅行したときにもそんな印象をもったが深くは知らない。ソ連のまったくの属国だった東欧はすべて崩壊したのは当然。北朝鮮は醜悪きわまる独裁国に転落して問題外。金日成はスターリンを崇拝していたときいている。朝鮮が戦後にすぐ南北に分断されてしまったことに植民地統治をしていた日本は大きな責任があると思う。
 大局をみれば世界の共産主義運動は現段階ではことごとく失敗かあまり成功はしていないということだ。とくにスターリンとスターリンのあとのソ連共産党指導部の大国主義、覇権主義がめちゃくちゃにしてしまったことは間違いない。なぜスターリンのような人物がでてきたかという研究も非常にすすんでいて私も今勉強中だ。
 かといって資本主義がうまくいっていて永遠につづきますというわけでもない。
 フランスやイタリアの共産党はレジスタンス闘争で国民の大きな尊敬をえていたが、ソ連が崩壊して、ソ連共産党から資金援助を受けていたことが発覚し、国民の信を失った。アメリカ共産党もソ連の資金援助で生きていた党だったので国民からまったく相手にされなかった。
 日本の党は、党内に分派をつくるなどソ連から干渉を執拗にうけたが資金援助をまったく受けていない。(ソ連と内通していたごく一部の幹部をわかった時点でただちに除名した。ソ連崩壊後、膨大な文書がモスクワに残っていて調査団を送って徹底的に調査した。詳細な報告である不破哲三『内通と干渉の記録』が出版されている)。日本共産党は現在も未来も一党独裁を断固として否定していて複数政党制は自明なこととして綱領でも明記している。
 わたしは大学時代は滑稽なほど圧倒的な中国ファンだった。毛沢東選集など買い込んで喜んでいた。ソ連は「修正主義」らしいと思い始めていたがスターリンがあれほどの大量弾圧をしていたとは全く知らなかった。日本の党も当時まだ詳しくはわかっていなかったのではないか。ソ連が日本の平和運動にまで干渉するようになり、原水禁運動を分裂させ、急速にあれはおかしい、すっかり変質しているぞと私も思うようになっていった。
 反面、新中国に幼児的な心酔をしていたが、昭和41年頃から文革がはじまり、いったい何が起きているのだと会社の独身寮で布団に隠れて深夜、必死で勉強したものだ。ソ連も中国も社会主義の道をふみはずしたと知ったときの衝撃はきわめて大きい。あれで日本の党にまで早とちりで見切りをつけて離党したひとはけっこういるのではないか。恩師のN先生はわたし以上の中国ファンだったので文革の悲惨な実態と分析をした長大な赤旗論文をなんども送ったりしたものだ。それでも私の青春時代はベトナム戦争反対だけは一生懸命やった。
 ソ連、中国の共産党からの干渉を必死ではねのけて、「自主独立の党」として日本共産党は生き残ることができた。(愛国の党、民族の党といってもよかろう) ソ連、中国の党との膨大な理論闘争があって、日本の党も党員もきたえられた。共産主義はもう終わりだと、実存的不安にかられてたくさんの人(おもにインテリ層)が党をやめたが党は見事に生き残っていっそう強くなった。60年安保闘争のなかで党綱領がすでに確定していたことが実に大きかった。さらに戦前の網走刑務所で12年間がんばりつづけていた宮本顕治さんのような幹部が党にたくさんいたことも中ソの干渉をはねのけるのに大きかったのではなかろうか。60年綱領が確定する前には党の路線ではつねに試行錯誤があったが、貴兄のいうように無謬主義だったら、とっくの昔に日本共産党はいまの社民党みたいになっていたかもしれない。         
 いまは現代資本主義の長所と欠点を深く研究して資本主義の先の本来の社会主義・共産主義を展望して歩むのだと宣言している党だ。共産主義という名前がよくないから変えたらどうかという人が多いが「理想社会が刻まれた名前であり、日本共産党の92年の不屈の歴史が刻まれた名前でもあり変えるつもりはありません」というのが正式の見解。
 日本共産党のいまの考えをごく簡単に言うと「人類の社会は資本主義で終わりではない。資本主義で達成されたあらゆる自由や民主主義を発展的に継承し、花開く社会をめざす。当面の課題としては①資本主義の枠内での民主的な改革を行い、そのうえで選挙を通じて国民多数の合意で未来へと一歩一歩すすむ。②旧ソ連のような人民抑圧、他国侵略は社会主義とは無縁のものとして断固として退ける。
 なお、いま日本共産党は、社会主義と共産主義のふたつの用語は意味がまったく同じものだとして使っている。レーニンの『国家と革命』などには暴力革命必至論や社会主義、共産主義の二段階論などの誤りがあったと理論的に明らかにしている。
 こんどの衆院選で、自民党公明党が300議席を超えているのに、共産党がわずか21議席で鼻息を荒くしていたら滑稽だが、とにかく前進できたことだけでもうれしいと思っている。

初冬の漢詩   ・・褌子

 別に鼻息が荒いわけではない。信州安曇野にこんなことをいっている人がいるよ。まあ参考までにと、紹介したまでのこと。この北林さんというひとはちょっと共産党びいきすぎるとも思って読んだ。全くそんなに甘くないぞと。この人の里山保守主義というのはいいと思う。経済成長万能ではなく自然を大事にして身の丈にあったつつましい生活を日本人はすべきだと痛感しているから。
・・・
 さて、庭にでたら蠟梅のつぼみがもう大きく膨らんでいた。
 房州の晩秋から初冬の雰囲気が一番好き。
 佐賀県の坂本俊一郎さんというHPでみかけた方の文章から借用して、杜牧の晩秋の名詩文を紹介してみる。(といってもほとんど坂本さんのコピペで恐縮ですが)
 
  青山隠隠水遥遥  青山(せいざん)隠隠として 水遥遥たり。
  秋盡江南草木凋  秋尽きて 江南 草木凋(しぼ)む。
  二十四橋明月夜  二十四橋 明月の夜。
  玉人何処教吹簫  玉人何れの処にか吹簫(すいしょう)を教うる。        
 晩唐の時代に、揚州の赴任地へ赴く友人を贈った詩。青い山並みがおぼろげに霞み、まちなかを走る水路は遥か遠くに延びゆく景色であることよ。秋も終わろうとする今、温かい江南の揚州でも草木はすでに枯れて凋んだことだろうか。多くの美しい二十四橋もある太鼓橋の上に明月が輝きわたる夜だなあ。貴方(送別される韓綽判官さす)は一体どこで、歌姫たちに簫(ふえ)の吹き方を教えていて、お楽しみなのでしょうか。                

2014年12月19日金曜日

単純な質問・・・猫跨ぎ


褌子さんへ。随分鼻息が荒いね。とどまるところを知らない。いつぞや上野でアルコールと共に、声が急に大きくなり机をどんどん叩いたのを思い出す。
まあ世の中、急に変わるものでないから、もう少し落ち着いてくれないか。正義の共産党vs.ネオナチ安倍晋三の最終戦争突入か。ちょっとなあ。単純化し過ぎじゃないか。
   私は単純に次の問題に答えて貰いたいと思う。共産主義を奉じ成功した国家は古今東西何処にありや。ソ連、東欧の崩壊、北朝鮮の奇怪さ、中国の新たな帝国主義。不勉強だから知らないが、その崩壊の真只中、日本共産党は実存的不安に駆られたと思う。それなら信用しよう。しかし、そんな姿勢は微塵も見せなかった。我々の共産主義は違うといい、歯牙にも掛けなかった(ように見える)。私の不信感の根本はそこだ。ところでその自信はどこからくるのか。彼等とは別の国家プランに本当に自信があるのか。世界に実施例は?その国家プランのエッセンスを教えてくれないか。

函館通信2-12・・・ウイルス・・・仁兵衛

褌子さんも熊さんも御苦労さまでした。
鳥インフルは九州も北海道も殆ど関係なく拡大するものの様です。
人間社会が滅びてもウイルスは地球上に力強く生きながらえるのでしょう。

さて、句評を戴いたので少々作者の解説を加えさせて貰います。
1.準急はこの枯野には停まりません
JR北海道には既に準急が無いようです。この言葉もその内消えて行くのでしょう。
2.大根焚く金糸もつれし門徒章
12月9・10日京都了徳寺の行事。函館の末寺でもやっていて寒い中の大根は美味かったし体も温まった。門徒章は猫跨ぎさんの指摘の通り。
4.ぽっぽやの人差し指に今朝の冬
富良野から新得に向かう途中の幾寅という駅が撮影舞台。たまたま女房の本家のある場所だった。
9.戦争のただ中の地震冬の雨
TVで昭和19年12月9日?東南海地震事を知る。
10.雪しまき固まったままに献血車
3年前の実景。スーパーの前の広場に吹きっさらし状で献血車が居た。献血しようにも既に拒否される年齢であった。

みんなで一緒に「貧しく豊かになろう」里山資本主義  ・・褌子

 『風となれ、里山主義― 新しい保守主義の可能性』の著者北林あずみさんの総選挙の結果分析を掲載します。この安曇野在住の作家は、どういう人かわからないが、すこし共産党びいき過ぎて恐縮です・・・

  ■■■ 経済界、自民党だけが知る共産党の一議席の力と重み ■■■
 総選挙の余韻が残っている。
 大義なき選挙といわれ、盛り上がりに欠けた選挙といわれたが、終わってみれば、時代の地下深くで胎動していた歴史を突き動かすマグマが地表に噴き出してきた、とわたしは感じている。
 新しい時代の到来を告げる選挙だった、とわたしの文学的直観が語ってくれているのである(笑)。新しい歴史を動かす歯車がゆっくりと動き出したのが、わたしにははっきりと見えるのだ。
 最終議席数と最終得票数が確定した。
 先ず獲得議席数を見てみよう。
 自民党  290(-3)小選挙区222 比例区68
 民主党  73(+11) 小選挙区38   比例区35
 維新   41(-1) 小選挙区11   比例区30
 公明党  35(+4)  小選挙区9    比例区26
 次世代   2(-17)  小選挙区2   比例区0
 共産党  21(+13)  小選挙区1   比例区20
 生活党   2(-3)   小選挙区2   比例区0
 社民党   2(±0)  小選挙区1   比例区1
 無所属   9(-8)  小選挙区9   比例区0

 一つ前のブログで、共産党の一人勝ちと書いたが、民主党も改選前から11議席増やしている。13議席増やした共産党と2議席の違いだが、やはり共産党の一人勝ちという事実は変わらないだろう。民主党の幹部自らが惨敗を口にしているのだし、党首の海江田万里は小選挙区でも敗れ、比例でも復活当選はならなかったのが象徴的だろう。そして、勝っていたとしたら、余韻が明け切らない選挙後早々に、野党再編に向けた動きはなかったはずだ。海江田万里が落選したから党首選挙の必要性があるということよりも、再編に前向きな細野豪志が真っ先に名乗りを上げたことが、野党再編へと歩み出すことを如実に物語っている。
 野党再編の動きとは、小選挙区を前提とした二大政党制を睨んだものだが、この件については後で述べたい。
 次に得票数をみてみたい。
 今回の総選挙(投票率52.66%)と比較するために、2012年総選挙(59.32%)と2009年総選挙(69.28%)の得票数を記すことにする。( )内が2012年、[ ]内が2009年である。
 自民党 1770万票 (1660万票) [1880万票]
 公明党 730万票   (710万票) [810万票]
 民主党 980万票     (960万票) [2980万票]
 共産党 610万票     (370万票) 「490万票]

 共産党が全小選挙区に候補を立てているから単純には比較できないが、注目して頂きたいのは得票数の推移だ。69.28%の投票率があった2009年のときよりも増えているのは共産党だけなのである。それも、120万票であり、2012年と比べると、実に240万票増えているのだ。
 比例選挙区で見てみよう。ほぼ同じ投票率だった昨年の参院選(投票率52.61%)と、今回(52.66%)を比較したものだ。( )内が参院選の数値である。
   自民党 1766万(1846万)
   公明党  731万 (757万)
   民主党  978万 (713万)
   共産党  606万 (515万)

 民主党は有権者への裏切りと失望からどん底にまで落ちた支持を取り戻しつつあるのだろう。自民党と公明党は減らしている。自民党の比例における絶対得票率(有権者全体から見た割合)は、たった17.0%だという驚異的な数値である。前々回、政権を失ったときの18.1%よりも少ないのである。頭打ちどころか減り続けているというのが現実だろう。
 こうした数値を見てくると、自民党は小選挙区のマジックと低投票率によって辛うじて政権を維持していられることが分かろうというものである。
 自民党にとっては、もっと由々しきデータがある。
 東京の比例投票において、無党派層の投票先が一番多かったのはなんと共産党だったのである。共産党が22.5%、自民党が20.6%、民主党が20.3%という驚くべき数値だ。
 これ以上に恐ろしいデータがあるといったら、安倍晋三は青ざめることだろう。
 大阪の毎日放送(MBS)のラジオ番組『2014総選挙開票特番 センセイこれからどうするの? 今夜、聞きまくります』の冒頭で、「投票に行かなかった方にお聞きします。もし投票するなら比例は何党ですか?」とリスナーに尋ねた衝撃的な結果だ。結果は次の通りである。
 共産党  47%
 自民党  26%
 維新の党 21%
 民主党   5%
 公明党   0%
 次世代の党 0%
 社民党   0%
 新党改革  0%

「調査は『テレゴング』という名の携帯電話を使ったラジオ独特のもので、番組がリスナーに呼びかけた。呼びかけから集計まで早いものでは、数分間しか時間をかけず、たっぷり時間をかけて無作為のサンプルを調査する『世論調査』とはまったくの別物だ。早い話が、MBSラジオの開票特番のリスナーに対象が特定されているので、偏りがないとは言えない」と断りを入れた後で、「しかし、そうした前提を差し引いても、この調査の結果は驚きに満ちていた」と衝撃の凄さを隠さない。
 このデータに接したのは、一つ前のブログに寄せられたmoさんのコメントなのであるが、それに対してわたしが感想を述べている。
 コメント有り難うございます。
 興味深い内容の記事です。
 この47%の数値をどう読むかですね。
 私は安倍政権と自民党に対する有権者の憤りという「感情」の数値だと思います。自民vs共産という構図だから「感情」が共産党に向かったのではないでしょうか。
 但し、この「感情」が共産党に入れるという「意志」にまで昇華しなかった。だから投票しなかったのではないのか、と思います。
 この「感情」は政治不信と背中合わせです。政治不信と憤りの「感情」とは方向性がありません。何処に行くか分からない。巧みに煽り、誘導すれば排外的なナショナリズムにもなり得る。政治不信と閉塞感と行き場のない憤怒という「感情」は、ファシズムの温床です。
 共産党が更に躍進し政権を狙うとしたら、この47%の「感情」を共産党しかないという「意志」に変えるものが必要でしょう。私のブログの内容とも関わりますが、現実の共産党の姿をはっきりと示すべきだと思います。保守と革新の対立軸という従来のイメージではなく、自民党が破壊しているものと、共産党が守ろうとしているもの、自民党の描く未来(あるのか?)と、共産党が描く未来をはっきりと示すべきではないでしょうか。
 共産社会とはがちがちの資本主義発達史という進歩史観通りに見なくてもいいのではないかと思います。早い話が、同志社大学の浜矩子教授の提唱する里山資本主義とは、経済成長神話から開放されて、人々が自由と平等を基本として、経済成長をするためにマスメディアを使って煽られ、無理矢理に膨れ上がらせられている無意味な欲望を抑制して、環境に過剰な負荷をかけない循環型社会像であり、社会的富を皆で分かち合い、助け合う暮らしの中に生きる悦びと幸福を見つけ出そうというものだと理解しています。瑞々しい文化とはそうした社会に息づくのでしょうね。
 ギスギスした経済効率と最大利潤を求める経済成長至上主義の競争と格差の社会では生まれません。市場が一元化するので感性までもが多様性を失うからです。
 第一、このまま経済成長を続けていったら地球の破滅です。
 私は自分の保守主義を「里山主義」と名付けているのですが、人の暮らしと関わりながら、循環的な生物の多様性を生み出す社会を里山に象徴させました。
「共産」の意味とイメージを、反共教育で作られたイメージとしての武力革命と資本主義発達史の延長の姿から開放すべきだとも思っています。が、そうするとマルクス主義ではなくなる恐れがあるから難しいのかなあ(笑)。
 ともあれ、保守と革新を超えて、この無意味なイメージを払拭し、沖縄と3・11の心の原点に立って、あるべき未来を指し示す中で共産社会のイメージと展望と、そしてその内実とを国民にはっきりと見せることでしょうね。
 そうすれば、もう共産党しかない、という必然的な「意志」にまで昇華します。
 私は西欧近代主義の歴史的転換点だと思っているのです。だから歴史的激動期なのです。その証左の一つを、従来の保守と革新の対立軸が無意味になったことに見ています。(一部加筆しました)
 わたしは47%を純粋な意味での共産党の支持票だとは考えていない。曲がり間違えれば、偏狭なナショナリズムへと変質する可能性を秘めたものとして見ている。歴史が教えてくれてもいる。
 しかし、この数値は共産党が政権を奪えるという可能性をも示すものだ。誰もが考えもしなかったことが、現実になるかもしれないという厳粛な事実である。だから、権力側にとっては無視できない恐怖を伴った数値だということなのだろう(笑)。
 共産党への恐怖は既に現れている。
 麻生財務大臣が、大企業の内部留保を活用し内需を拡大すると発言したのだ。これは総選挙中に共産党が訴えてきた政策だ。他の野党がアベノミクスの対案を示せないばかりか、アベノミクスを全否定できずに部分否定に終始した野党をしりめに、共産党のみが示した対案なのである。
 総選挙の余韻がまだ残っているこのときに、何故に電撃で共産党の政策を横取り(笑)したのか。恐怖が仕向けたからだ、としか思えないではないか。それほどまでに、今回の総選挙における共産党の躍進の持つ本質的な意味にたじろいだのである。
 この発言は当然に自民党単独のものではない。自民党のバックにいる蔭の支配者である大資本の意志であり、恐怖なのである(笑)。
 共産党の1議席が持つ重みと力を誰よりも身に沁みて知っているのは、自民党と経済界(大資本)なのである。
 たかだか21議席で何ができる、と嘯いている野党には、永久に分かるはずのない深層に隠れた本質的な意味なのである。その証拠に、相も変わらず野党再編という野合に走ろうとしているのだ。小選挙区制を温存したままの二大政党制を妄信しているのである。これまでのデータをみれば、小選挙区制が自民党にとって命綱であることが分かる。そして、可能な限り投票率を低く抑えることが必須になる。その端的な現れが、大手マスメディアを使っての政治不信と政治的諦念の捻出に他ならないのだろう。小選挙区制を温存したまま、小選挙区制の前提に立って、これから野党が繰り広げる野合劇は、凋落が必死の自民を利する行為でしかないだろう。
 こうした野党の動きなど、自民党と大資本にとっては痛くも痒くもないのではないだろうか。これまでの小沢一郎がしてきたことの延長の政治的喜劇であり、政治的悲劇であり、政治的堕落なのである。こうした離合集散が生み出したのは政治不信と政治侮蔑と政治的諦念と、そしてやり場のない憤怒と絶望の感情を社会の中に膨れ上がらせ、時代の閉塞感を充満させただけなのである。
 こうした社会的な空気は、危険なファシズムの温床でもある。実際に安倍晋三のような軽薄なネオナチの心情を生きる政治家によって、社会的雰囲気を極右へと導いているではないか。
 二大政党制とは国民にとっては不幸である。
 小沢一郎は、安心して任せられる責任ある野党の育成による政権の移譲可能な二大政党制を説いたが、「安心して任せられる責任ある」という言葉は誰に向けて言われたものなのだろうか。わたしは国民ではなく、経済界(大資本)だと思っている。自民党と自民党亜種の政党だけが存在を許され、その二つの政党でたらい回しができればそれこそ願ったり叶ったりであろう。
 アメリカ社会がどうしてこれほど極端な格差社会になったのか、どうして巨大金融資本と超多国籍企業を野放しにしていられるのか、諸悪の根源は二大政党制にあると思っている。ほとんど同じ二つの政党の選択肢しか与えられていない牢獄に、国民が幽閉されているからだ。あたかも変わったような錯覚に陥るが、違いはバックで操る巨大資本の顔ぶれの違いだけである。巨大資本の姿によって性格は多少変わる。戦争を生業とする巨大資本と、国民生活に関連する巨大資本とは当然に性格が違うものである。が、本質は一緒だ。
 だから、民主党と共和党で政権をたらい回した結果が、超格差社会の出現なのである。
 アメリカの場合はレッドパージがあったことを忘れてはならないだろう。
 そして、二大政党制とはマスメディアによって世論操作を行えば、容易に独裁的な政治状況を作り出せるという危うさがある。安倍政権が見せてくれている。
 護憲、反原発、反TPPを明確に党是とした政党が野党にあるだろうか。社民党と共産党だが、社民党はあろうことか、橋下徹代表が自ら自民党の補完勢力だと明言した維新の党と選挙協力したのである。維新の党は護憲派ではなく、竹中平蔵をブレーンとしていることからも分かるように、新自由主義を党是に掲げている。自民党よりもドラスティックな規制緩和と市場開放を求めているのである。何を血迷ったか、と言わざるを得ない(笑)。
 わたしはどんどん野党再編をやればいいと思う。どうでもいいことだからだ(笑)。
 自民党と、そして特に経済界にとってもどうでもいいはずだ。敵をはっきりと共産党に絞り、日増しに大きくなる敵の姿に恐怖を覚えているからだ。
 わたしは既存の保守と革新は意味をなさなくなった。そして、自民党が日本の文化と伝統と、日本人の心の故郷である原風景を破壊している元凶だと言った。共産党こそが日本の文化と伝統と、日本人の心の故郷である原風景を守っている唯一の政党だとも言った。それが現在の政治状況としての真実であり、その真実の前に躊躇することなく、新しい対立軸と価値基準を共産党の主導の下に作るべきだと言った。
 沖縄の心と3・11の心の原点に立つことで、日本人のあるべき生きる姿を見据えて、未来の社会を描いて欲しいとも言った。その社会が共産社会なのだろうが、マルクスは共産社会を語ってはいないのである。マルクスが語っているのは社会主義社会に至る必然性であり、その先に共産社会があると言っているにすぎない。
 日本のあるべき未来として具体的に語るべきは、共産党だろう。そのあるべき未来の前には、既存の保守と革新の価値観は無意味なものになっているはずだ。既存の保守と革新の境界線と意味が無意味になったとは、中道という概念も無意味になることである。従って、「社会民主主義」も無意味になることだと、わたしは断言できる。酷であるが、もう社民党の役割は終わったのかもしれない。既存の土台としての価値観が激しく揺れ動いている時代の転換期ならば尚更である。
 自民党と経済界(大資本)の恐怖はこれだけではない。
 わたしが上述した動きが既に起こっているからだ。
 わたしも認識が甘かった(笑)。既に共産党は実践しているのである。
 Twitterで共産党の重鎮、小池晃共産党副委員長がこんなことを呟いている。
 筑西市・樋口雷神社前で茨城県議選出陣式。氏子総代として神社を守った鈴木さとし県議、新中核病院建設のためにもなくてはならない議席、党派こえて守り抜こうと訴えました。神社前での選挙第一声は初体験。保守の皆さんとの共同の広がりを実感します。
 その写真を見て正直びっくりした。想像もしなかったからだ。共産党の北陸信越ブロック事務所の手になった農業バナーのコピー「農業は国の礎」とともに、沖縄の心と3・11の心を生きる保守の人たちの心を、共産党が引き寄せているのは間違いない事実である。それをどこまで加速させるかが課題なのだろうか。
 北陸信越ブロック事務所の方のツイートでも、盤石なはずの保守地盤である石川でも共産党に賛同する保守の人たちが大勢現れ始めたようである。
 自民党が地方の地場産業と農業を破壊すればするほど、保守の心は共産党へと吸い寄せられていくのだろう。が、今の自民党にはそれを食い止める力はない。ネオナチ極右政党でしかないからだ。そして、経済政策は新自由主義そのものになってしまっている。TPPへと暴走するだろう。できるとすれば、金を地方にばらまくことだろうが、過去のようにそれで地方全体の経済が潤うという構造は崩れてしまっている。部分的な一次しのぎであるばかりか、地方の歪みをより大きくするだろうし、財政赤字がねずみ算式に増えていくことだろう。性懲りもなく、また大増税をするとしたら、永遠のイタチごっこである。いや、イタチごっこを通り越して破滅であろう。
 超国家主義は国家を絶対化し、新自由主義は国境を無くして市場の一元化を目差す。共存できそうにないように思えるが、国家を隠れ蓑にして強大な軍事力で市場の一元化を図るのである。経済は新自由主義、政治は超国家主義という分裂症をネオナチ安倍自民党は生きている。ネオナチの色彩を強くすればするほど、軍需産業への傾斜は強くなるだろう。ベトナム戦争で使われた非倫理的な枯れ葉剤を作ったモンサント社が、農薬などを作る化学会社であることを見れば分かるように、戦争とは様々な産業が関わっている。化学肥料は行程を少し変えるだけで爆薬にもなる。
 良質な保守の心が反自民へと変わり、共産党へと雪崩れていくことを、最早止めることは不可能なのではないだろうか。
 こうなると、共産党への風当たりは強くなるだろう。
 自民党だけではないはずだ(笑)。露骨な反共キャンペーンが繰り広げられるのだろうか。アベノミクスの破滅的な破綻は早晩やってくるはずだ。国民生活の惨状も深刻となるだろう。自民党と経済界(大資本)にとってはのっぴきならない危機的状況だ。だからこそ共産党への恐怖は増幅されるだろう。
 共産党への恐怖心が、戦前のような極右独裁軍事政権の道へと加速させて、奈落へと続く坂道を転がり落ちていくという危険性も考えられる。反原発と護憲は国民の大多数を占めている。沖縄の圧勝も共産党を決して孤立させることはないはずだ。戦前とは違い明らかに状勢は明るい。
 共産党へと結集した国民と、ネオナチ安倍政権との本当の戦いはこれからが正念場なのだろう。

 (北林あずみさんのHP『安曇野賛歌―風よ安曇野に吹け』から引用させていただきました。西沢昭裕)

2014年12月18日木曜日

選挙でくたびれました・・・  褌子

また盛り上がってきましたね。
みんなが内田樹さんの長い講演を読んでくださったみたいでありがとう。
私は非常に面白く読みました。猫跨ぎさんがいうように、後半で最近のアメリカへの奉仕は日本の政治家たちが個人的な見返りを期待しているからだと断定しているところはそれだけではあるまいが…とも思いましたが、とにかくなかなか聞かせる話をするひとだ。注目してい

選挙ってなんだろう?       九州の熊

選挙が終わった。褌子さん、とりあえずご苦労さま。自分の信じる道をまっしぐら。いいですねぇ。
わたしの選挙区は自民党と共産党の二人が出馬。両方とも支持する気にならなかったので白票を投じた。これも棄権と同じ扱いなのかなぁ。比例区は○○党と記入した。以前は民主党の大物議員がいて個人的なつながりもあったのでその候補者に投票しつづけた。このお方は高齢(といってもわたしより二歳年上)と体調不良で数年まえにリタイア。後継の候補者はあまりぱっとせず小選挙区制になったあおりもあってずっと落選。そして今回はとうとう立候補しなかった。小選挙区制は強い者が勝ち続ける仕組みなんだと改めて実感した。
少数と思ってもなんらかの意思表示を、棄権は健全な民主主義のために避けよう、は総論であって、自民党と共産党の二人のうちどちらかに投票しなさいという呼びかけに素直にはいわかりました、という気にはならない。なんかおかしい・・。
ここ宮崎は突然の衆議院解散になるまえに県知事選挙の日程が決まっていた。今週末の21日が投票日。二週つづけての選挙である。数日前に鳥インフル騒ぎが発生。現職の知事はその対応に追われ選挙活動どころではない状況になってしまった。新聞の「候補者の動向」には”鳥インフルの対応”と記載されていた。他の2候補は県内の宮崎市、日南、日向などの遊説先が記載されている。こんなこともありなんですよね。こちらの方は1強2弱なのでまさか現職が落選することはないと思うけど。宮崎県民は優しいので、選挙運動もままならない、かわいそうに、となってかえって票がのびるのでは。選挙もいろいろなんですね。
仁ちゃん、鳥インフルのことを気にかけてくれてありがとう。今回は対応がすばやく的確であったので今のところ拡大はくいとめられているみたい。このまま終息することを祈るばかり。



ご無沙汰・・・猫跨ぎ

  ちょっと雑用に追われてご無沙汰していた。内田樹氏の長文の速記録が話題らしいので拝見。よくこなれて記述されているのでスルスルと理解できた。
  前段はその通りだと膝を叩きながら読んでいたがその内にあれと思うようになり、残念な印象となった。40年代の日本の保守政治家、官僚、学者のメンタリティが変質した下りが、彼等自身の立身出世欲だと断定してやまない。大きな視点で述べてきた筆先が急に個人的資質に向けられる違和感。ちょっと違うんじゃないか。
  国家観。武道家としての自身の経験から、直感からクニの本質を理解するという下りは、ユニークで共感する。ところが直ちに日本のクニの根幹に、日本国憲法がある、という。あれ、ちょっとこのいきなりの超断定は何だ。この天照らす大御神は何処から来たんだ。自分は知的存在として多くの知的ならざる保守政治家の思考の先回りをして、こらこらそれ駄目と言う、という。へえ、あんた偉いんだね。
  偶然、今日の東京新聞の朝刊に彼の談話が載っている。「金儲けから脱却を」は聞かせる。後半に、成長しなくてもやっていける国家プランを出すべきだ、は傾聴にあたいする。1ヶ月前くらいの当欄で述べたが、そういう主張の政党がいるなら支持したい。現政権の政策にけったくそ悪いと反対するのはいい。その代わりこういう国家プランがあると提示すべきだろう。僕ら大衆は聞かせて貰いたいんだよ。

26.12仁句鑑賞・・・猫跨ぎ


今年最後かな。仁句鑑賞
 

1. 準急はこの枯野には停まりません
JRに準急はもうないよね。私鉄にはあるけれど。新幹線開通で北海道の鉄道環境は大きく変わるのだろう。掲句の具体的な内容は判らないけれど、それと関連したことかな。

2. 大根焚く金糸もつれし門徒章
弔いに来る人にまかないに大根を焚いている。法事風景ですね。門徒章というのは同じ宗派の、とくに浄土真宗の門徒が着ける紋章のようなものか。かがっている金糸が縺れている。よく風景が見える。準特選。

3. 任侠と根雪と珈琲健さんと
高倉健が亡くなった。82歳、壮健だったらしい。われわれも、まあと10年というわけだ。
女性に徹底的にストイックなのが彼の特長で、絶大な人気の大本もそこにある。欧米にはないキャラだね。アランドロンもイーストウッドも結構女にはチャラチャラして一向に構わない。名優というが、どうかな。余りそうも思わないが。

4. ぽっぽやの人差し指に今朝の冬
「鉄道員」。この映画観ていない。指差呼称のワンシーン。

5. 優先席ぽっかり空いて冬の海
電車の優先席。どうぞとばかり空いている。冬の海ね。象徴的。準特選。

6. 北風や手術の前の弥次郎兵衛
ご自身の体験かな。俎板の鯉の心境かとも。

7. 冬日和角に書肆ある三丁目
書肆は俳句で多用されるね。三音だけど、発音上二音と扱われ、書店より締まりがいい。散歩の目印とも、行きつけとも。

8. 風説の拭い切れずに虎落笛
この風説とは何だろう。拭えるのなら拭いたいという風説。蕭条とした風景。

9. 戦争のただ中の地震冬の雨
どこだろう。逸徳氏によれば終戦前の東南海地震か。津波もすごかったらしい。報道管制で殆ど知られなかったらしい。

0.雪しまき固まったままに献血車
気象的には暴風雪。そうしたなか停車している献血車の中では粛々と業務が行われている。また献血に応じる人々がいる。私も特選としよう。

2014年12月17日水曜日

ちと書きわすれた・・・・逸徳

パキスタンで学校が襲われ140人死んだ。そのことに関連して次のサイトを紹介したい。前回書こうと思ってわすれてた。「This Land is Mine」 www.youtube.com/watch?V=-evlyrrjTTY 感想をドーゾ  拡散希望

だいじょうぶかい・・・・逸徳

ニュースを聞いていると、やっぱり仁ちゃんのことをかんがえる。なんとかやっているようでよかった。外出はするなよ。 ホワイトアウトという言葉がテレビに流れていて、なつかしいがおどろいた。
静岡は、中部山岳地帯にまもられて、かぜはひどいが、のんきなもんだ。だからぼーっとした駿河人ができる。おいらがそうだと思うなよ。

さて、選挙が終わり、褌子さんの長ーい投稿にいろんなことを考えさせられた。ことばについて考える。科学のことばは筆者の生き様はあんまりでてこない。だから感情ぬきで読める。政治の言葉はほんとうは科学の言葉の側面を持ってほしいが、やはり人の生にからんでいるので、そんなに客観的には読めない。つまり誰がしゃべった言葉かということがいやおうなしに問題になる。ならなきゃおかしいと思う。で、昨今の政治家の言葉がひどいという話をやると長くなるので、横においておいて、やはり政治を語ることばを聞くと、どうしても「で、あんたはどこにいるんだ。」と思うキモチが湧き上がってくる。褌子さんの投稿を見ていると、やっぱり褌子さんの生を裏においておいて読んでしまう。だから面白いといえば面白いが、やっぱりくたびれるようになった。年かなあ。

で、めずらしく仁ちゃん句鑑賞

1. 準急はこの枯野には停まりません・・・準急はどこへそんなに急ぐの。ぼくは枯野にポツンとひとり。いそぐなかれ旅人よ。琴花酒のあるものを。・・・・にたような場面が星の王子さまにあったなあ。
2. 大根焚く金糸もつれし門徒章・・・・ごめん門徒章がわからん。
3. 任侠と根雪と珈琲健さんと・・・・健さん3句の1か。あの人確かに、北海道がにあう。「駅」を思い出す
4. ぽっぽやの人差し指に今朝の冬・・・・ぽっぽやのロケ地までいったなあ。だれといっしょだったか。まだセットがのこっているらしい。過ぎた祝祭の跡か。
5. 優先席ぽっかり空いて冬の海・・・・ぽっかり空いてで健さんの行ってしまった空虚感がひしひし。健さん3句の中では一番ストンと落ちた。
6. 北風や手術の前の弥次郎兵衛・・・・・手術の前で弥次郎兵衛かよ。不安感と不安定感。うーん、絶妙の取り合わせ。特選その2。
7. 冬日和角に書肆ある三丁目・・・・・いいなあ、その先はやっぱちいさな飲み屋がほしい。飲み屋には北の誉とイカ納豆があればいい。書肆という言葉を聞くと、心動くのはなぜだろう。
8. 風説の拭い切れずに虎落笛・・・・ 風説と虎落笛の組み合わせからうかびあがるイメージが哀しくて。
9. 戦争のただ中の地震冬の雨・・・・うちの周辺にも19年の東南海地震があった。しとしととふる冬の雨。苦しむのはいつも庶民だった
10.雪しまき固まったままに献血車・・・・ 献血車がいい。雪がしまこうが、地吹雪だろうが、人は生きなくてはならん。おいらの血でよければ届けよう。・・・ 無意識の、失礼ながら作者もそれほど意識していないかもしれない(失礼) ふかーいところでの生の肯定を感じる  特選その1


ごめん ド素人のたわごと ご笑納を。 しかしいいなあ。 冬吹雪の向こうに仁ちゃんを感じた。やっぱりこれは、まぎれもなく仁ちゃんの句だな。

よいお年を


函館通信2-11・・・小さな身でしかない・・・仁兵衛

 総選挙を前後して褌子さんの独壇場が続いている。逸徳さんも長いと言われたあの講演会文(もう演者の名前も忘れた)は本当に長かったね。しかし内容は極めて面白かった。戦後史のある一面を見事に言い当てていると思ったよ。そもそも普通の平凡会社員で糞真面目に働いていたら会社帰りに一杯やっている話題にはこんな「戦後史」は先ずでてこないからね。我々が居た昭和30年、40年代は今の教科書にどの位書かれているのか知りたくなったよ。

 
 
 
 
 さて、北海道には今948H.パスカルの低気圧がやってきている。今年は早い暴風雪の到来だ。函館は幸いに雪は降る事は降っているが暴風雪までには至っていないのでご安心ください。九州の熊さんとこの鳥インフルの方が不気味に感じるのは私だけかな。予想好きとしては来年は各所の火山活動が賑やかになりそうに思っています。候補、阿寒、吾妻、阿蘇、霧島など。山好きな人は気を付けて下さい。

 熱の入った議論の後に俳句でも噛み締めてみては如何でしょうか。高倉健の追悼句も入れてみました。
平成二十六年十二月
1. 準急はこの枯野には停まりません
2. 大根焚く金糸もつれし門徒章
3. 任侠と根雪と珈琲健さんと
4. ぽっぽやの人差し指に今朝の冬
5. 優先席ぽっかり空いて冬の海
6. 北風や手術の前の弥次郎兵衛
7. 冬日和角に書肆ある三丁目
8. 風説の拭い切れずに虎落笛
9. 戦争のただ中の地震冬の雨
10.雪しまき固まったままに献血車

2014年12月16日火曜日

『一羽の鳥について』 いとうせいこう   ・・・褌子

  晩秋に椋鳥の大群が飛び交っているのをみるときに、あの群れにはリーダーがいるのかなあと思うことがあるのだが、作家のいとうせいこう氏の考察が面白い。
 
   ■■ 『一羽の鳥について(あらゆる選挙に寄せて)』 いとうせいこう ■■

 自分一人が投票したところで何も変わらない、と多くの人は思う。選挙を前にして自分が無力であると感じる。その感覚に傷ついて無関心になる人もいる。
 だが、「自分一人が投票したところで何も変わらないと思う一人」が投票すると社会が変わる。
 私は何度かそういう選挙を見てきた。
 デモも同様である。
 「私一人が出かけようが出かけまいが何も変わらないと思う」人が実際に出かけると、それが膨れ上がる列になる。
 その時、世界は何かしら変わる(ただし根本的に私は、変わろうが変わるまいが思ったことを主張しに出かければよいだけだと考えるのではあるが。そもそも世界を変えたい場合、有効性ばかりを先に考えることは無意味だ。なぜなら変わる前の世界から見た有効性の基準は必ず「古い」から)。
 がらりと世界が変わることもある。それはほとんど次元の移動のようだ。今生きている世界から別の世界に、人は突然接続する。私は決して疑似科学を語っているのではない。
 これが選挙の謎なのである。
 代議制の、つまり多数の者が少数を選び、選出された者に政策をまかせるシステム、すなわち民主主義の厳密な数学、ないしは物理学がこれである。多数の者が少数の権力者に影響を与えるわけだから、それはデモの謎でもある。
 私が変わると「私たち」が変わる。
 私が行かない投票には何千万人かが行かない。
 私が行く投票には何千万人かが行く。
 特に浮動票と言われる「私たち」は渡り鳥のようなものだとイメージしてもいい。渡り鳥は飛び立つ時間をあらかじめ知っているのではなく、みんなで行きつ戻りつするうち突然旅に出る。
 その時、どの鳥が出発を決めたか。
 最後はリーダーが決まってくるとしても、飛ぶ群れの起源を遡ればどうなるか。
 「私」という一羽の鳥が、としか言えないのではないか。
 さて、もしもあなたが「私たちが変わったところで政治家が変わらないのだから意味がない」と思うなら、それはそれである種の「政治不信というキャンペーン」によって「無力」さを刷り込まれているのだと私は考える。
 国民が「政治不信」になればなるほど、組織票を持つ者が好き勝手にふるまえる。
 むしろ無力なのは選挙に落ちるかもしれない政治家の方だということを思い出して欲しい。
 選挙期間というのは「無力」さの逆転が起きる時間なのであり、結果を決めるのは例の「私たち」以外にない。
 つまり「私」以外に。
 その時「力」はどちらにあるか。
 あなたにある。
 これが選挙というものの恐るべき、スリリングな本質だ。

2014年12月14日日曜日

うーんしまった・・・・逸徳

ガ・ガソリンの前でマッチをすってしまった・・・・・・・

小選挙区制について・・・  褌子

  小選挙区制だと前回の自民党は比例区などたったの15%の得票率だった。小選挙区制でなかったら特定秘密保護法などの悪法はああまで簡単にはとても成立できなかったろう。政党助成金も政党をかぎりなく堕落させる。民主党は党運営費の86%、自民党は72%、維新の党は橋下が公務員削減せよとえらそうなこといっているが70%が国民の税金で運営されている究極の国営政党。しかも供託金が小選挙区は300万円で10%以下の得票だと没収。比例区は600万円。ようするに世界一高い供託金で庶民の立候補を閉め出し、たった一人しか当選できない小選挙区295議席で大政党が総取りした議席数で年320億円の政党助成金をほぼ山分け、という仕組み。年末に政策抜きの政党の離合集散が起きるのは政党助成金ねらい。小渕優子などは政党助成金を私生活に流用していたし、自民党政治家は銀座の高級クラブに出没し、宮沢経産省がSMバーに出費していた。
  このニセ政治改革をやった中心人物は小沢一郎、いわゆる学識経験者では佐々木毅東大教授。小沢一郎は隠し子がばれて女房にも逃げられるくらい人間性がよくないらしく、いまはすっかり孤立しているかにみえるが、共産党をのぞく徹底した保守二大政党論者で、選挙後にまた、佐々木毅と組んでいろいろ仕掛けてくるのは間違いないとみている。この二人は小選挙区制にまったく反省のない人物。佐々木毅は政治学者としての実力がないにもかかわらず東大学長を射止めた曲学阿世のニセ学者という評判だが、今秋またしても選挙制度改革の座長に就任している。
  ニセ政治改革は細川内閣のとき。衆院で賛成多数、参院では否決で廃案になるところを、旧日本社会党の土井たか子衆院議長が議長斡旋にしゃしゃりでて、深夜に細川氏、自民党総裁の河野氏の談合で小選挙区300議席、比例区200議席で成立してしまった。(民意を正確に反映する比例区はその後180にまで減らされた) 
  細川と河野の両氏はそのご、政治改革は失敗だった、とくに小選挙区制が大失敗だったという反省を謙虚に何度も表明している。土井たか子元衆院議長のほうは同志社大学の高名な憲法学者であった田畑忍先生の愛弟子であったにもかかわらず、小選挙区制成立に手を貸すという歴史的汚名を背負ったまま、今秋に亡くなった。土井たか子氏は小選挙区制成立について自分の果たした役割について反省していたかどうかは私は知らない。(小選挙区制になって、いっきに日本社会党は制度的にも消滅にむかった)
  こんどの衆院選でいままた「議員定数削減で身を切る覚悟」などと叫んでいるのは、比例区の定数削減をねらっているもの。仮に国会議員を60人減らしても60億円くらいの税金削減であるが、政党助成金制度を廃止すれば年320億円の節約になる。政党助成金制度ですでに6700億円もの巨額の税金が政治家のふところに消えた。
 なお、日本の国会議員の数はけっして多くない。欧米諸国に比べて人口比にすると少ないことを付記したい。

2014年12月13日土曜日

がんばれや・・・・・逸徳

お気持ち多々了解
それにしても、小選挙区制はよくないねえ。2割以下の得票数で政権がとれるというゆがみはひどい。
こちらの9条の会で、集団的自衛権行使反対ということで、特別の高校生向けに編集したビラ(これがおどろいたことに、今までどこにもなかった)を作って、地元の高校2校で登校時をねらって、高校生にビラをまいた。反応はきわめて良好。1校で400枚以上が一気に高校生の手に渡った。全国9条の会でつくった集団的自衛権行使反対のポスターが大変よくできていて、男女のわかものが遠くをみている画像に「集団的自衛権行使容認反対」というロゴといっしょに「いくのはあたしら」という文字が書かれているのだが、インパクトがあって、高校生たちが真剣にみていったのが印象的である。

これで自公が2/3を超えると、かならず憲法改正が出てくる。そして国民投票は18歳から投票権がある。つまり高校生はまぎれもなく「当事者」なのである。したがって、高校生に問題提起することは絶対に重要なのだが、今や高校における政治教育は押さえつけられ、ほとんど息絶え絶えである。かわりに流れ込んでいるのがきわめてかたよったネット情報である。メディアリテラシー?というのが必要だ。しかしそんなことは教育はされていない。20年近く前に自分のクラスのホームルームで、ちょうど総選挙のころだったので、事前の学習をしておいて、模擬投票をやったら、政治教育なんて寝た子をおこさんでくれと、校長室によばれて校長に哀願されたことを思いだす。そのころフランスでは、学費値上げ反対で数十万の高校生がパリをデモしていたのである。そして学費値上げは中止される。絶望的落差。

そこで、高校生に前記のビラをいれる運動をひろげることを提起したら、教員組合OBが県東部で手を挙げた。さっそくチラシの原稿を送り支援をはじめた。ひろがってくれないかなあと考えている。
すべからく運動はこれからだと思っている。ひとりでもやれる運動である。だれかやらんかなあ。

町の飲み屋の世間話を聞いていると、けっこうみんな批判的意見をもっているようなのだが、これが町レベルの話から全国レベルになるとだんだんおかしくなって、話がゆがんでくる。そこで、最近はつくづく思うのだが、まず、自治体レベルで民主的なコミュニテイをつくっていくことがポイントで、そのことを通して自立した市民を育てていくことが、結局は国全体につながるとおもう。かぎは地方だ。「農村が都市を包囲する」っていったのは毛沢東だったかなあ。(笑)  そこで前にもいったが「まず半径100mの民主主義」を考える。   

というようなことをいっているが、15日に心臓のCT検査をやる。どうも毛が剥げてきているかもしれん。まあ、気楽にいこうと思う。

2014年12月12日金曜日

私のフェイスブックから  ・・・ 褌子

■「いまでも悔まれるのは、共産党を治安維持法で押さえつけたことだ。
いまのように自由にしておくべきではなかったか。そうすれば戦争がおきなかったのではあるまいか…」
(『最後の海軍大将井上成美』伝記刊行会から)
■今朝の新聞オリコミ『今度こそ軽減税率・公明党』にカチン。 消費税上げた張本人がこんな言い訳するのは、貧乏人宅に押し入った強盗が『盗む金を軽減してあげます』といっているようなもの。前回は『年金百年の安心』といっていたがあの公約どうなったのか。新聞オリコミ費用も国民の税金である政党助成金ですよ。
■政党助成金うけとらない共産党、比例は日本共産党と「政治とカネ」号外くばってプラスターたててメガホンで叫んでいると、JR五井駅では政党助成金もらってないとはエライ!とサラリーマン1000円カンパしてくれた。赤旗購読したばかりの独り暮らしのYさん「この新聞は真実書いてある」と封筒に書いてカンパ1000円届けてくれる。市原市の市議会議長もむかし歴任したWさんからメールきた「自民党の中身に嫌気さして党やめました。身を切るなら政党助成制度廃止せよとテレビ党首討論で志位委員長が正論言っていましたね。共産党の躍進に期待します」
■有権者と話してみての最近の私の感想です。ほかの政党がコロコロ名前を変えたり勝手に解散したりするせいか、「共産党はがんこで信念曲げないのがいいね」とか「あんたんとこはいつも言ってることが一貫していて安心して聞いていられる」とか言われることが最近だんだん増えたように感じています。
 党名を変えたらどうかと言われることは以前より減ってきたように思う。ときどき『日本共和党』に変えたらどうかと熱心に勧めてくるひとが今もいるが。
 政党助成金は法律で決まっているんだから無理せずもらえばいいのにと以前は本当によく言われたものだが、最近は「政党助成金もらってない共産党はえらいねえ」と言われるように随分なってきた。
 頑固に根気よく国民の立場から道理を貫ぬき通すことが必ず生きてくるんだなあ?と思わずにはいられません。
■越谷にいる右翼を自認している小学時代の同級生に号外郵送したら「埼玉3区は夫婦で共産党にいれるぞ。政党助成金拒否とはエライ。おめえもしっかりやれー!!」とただいま激励電話あり。この同級生はおれは右翼だと自称しているが、尖閣問題での政策を郵送してから、日本の党のなかで共産党がいちばん愛国心がある、とお誉めいただき急速に仲良くなった。
■市原市で演説していたら、こんな反応も。
 80代ご婦人『ソ連に占領されていたら日本は大変なことになりましたよ。アメリカに占領されたおかげで、こんないい国にしてもらって。アメリカさんと仲良くやっている自民党にしか入れたことありませんのよワタシ、ホホホ…でも金権腐敗は困るわねえ』
 赤旗まつりに参加し、津田沼駅での志位演説を拍手もせず目をつむってきいていた銀行支店長だったSさん『45%は志位演説に賛成。消費税20%にして一挙に国の借金返した方がいいというのが僕の持論だったので急には切り替えできん。とりあえず投票は夫婦であんたんとこに入れます』
 近所の元農協役員で自民党員だったおじいさんが私の演説きいて家にまでやってきて『自民党は長い目でみると平等な政治やってるよ。うちの町会だってみてごらんよ。戦前、小作で貧乏していたうちがあんな立派な家建ててさ、大地主の息子たちが小さくなっているではないか』(農地改革を自民党がやったと思い込んでる。TPPは反対だから投票は迷っているといっていた)  

2014年12月4日木曜日

おもしろいんだがな・・・・逸徳

ながすぎた いくらなんでも くたびれた それでどっかにいっちまいそうになった

2014年12月3日水曜日

内田樹の講演が面白かった・・・褌子

内田樹神戸女学院大学教授の講演内容がじつに面白かった。「内田樹の研究室」から、ちょっと長いが転載します。
   
    ■■ 資本主義末期の国民国家のかたち ■■ 
                   内田樹(うちだ=たつる) 
 今日のテーマですが、安倍政権、なぜこのような政権が存在していて、誰が支持しているのか。戦後日本の民主主義社会からなぜこのような政体が生み出され、それに対して政官財メディアがそれなりの支持を与えているのかという、非常にわかりにくい現状を解読してみたいと思います。
 現政権のありようを制度の劣化、制度の崩壊というように、先ほど山口先生がおっしゃいましたけれども、崩壊したり劣化する側にも主観的には合理性があるわけです。正しいことをしている、いいことをしている、日本の国民のためにやっているんだと、本人たちはそういうつもりでいるわけです。初めから日本を劣化させてやろうというよう悪心をもってやっているわけじゃない。我々の側から見ると、日本の制度をぶちこわしにしているようにしか見えないんですけれども、先方には主観的な合理性がある。主観的には首尾一貫性がある。たぶん正しいことをしているつもりでいる。僕としては、自分の判断をいったんかっこに入れて、彼らの側の主観的な首尾一貫性が何かということを見てゆきたいと考えています。
 特に海外から見た場合に非常にわかりにくいと思いますが、日本の国家戦略が戦後一貫して「対米従属を通じての対米自立」というものです。これが戦後日本の基本的な国家戦略です。でも、この「対米従属を通じての対米自立」ということは日本人にはわかるけれど、他国からはその理路が見えにくい。
 僕は、個人的に勝手にこれを「のれん分け戦略」と呼んでいます。
 日本人の場合、のれん分けというのは、わりとわかりやすいキャリアパスです。丁稚で奉公に上がって、手代になって、番頭になって、大番頭になって、ある日、大旦那さんから呼ばれて、「おまえも長いことよく忠義を尽くしてくれたね。これからは一本立ちしてよろしい。うちののれんを分けてやるから、これからは自分の差配でやりなさい」と、肩をぽんとたたかれて、独立を認められて、自分の店の主になる。そういうようなキャリアパスというか、プロモーション・システムというのは日本社会には伝統的に存在していました。
 だから、日本人にとっては、「徹底的に忠義を尽くし、徹底的に従属することによって、ある日、天賦のごとく自立の道が開ける」という構図には少しも違和感がないと思うんです。戦後日本人が「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略に比較的簡単に飛びつけたのは、そして、そのことの「異常さ」にいまだに気がつかないでいることの一つの理由はこの「のれん分け戦略」というものが日本人の社会意識の中にかなり深く根を下ろしていたからではないかと思います。一種の伝統文化です。
 対米従属を通じての対米自立というのは、敗戦直後の占領期日本においては、それなりに合理的な選択だったと思います。というよりそれ以外に選択肢がなかった。軍事的に決定的な敗北を喫して、GHQの指令に従うしかなかったわけですから。
 この状態から、屈辱的な非占領状態から脱却するためには、とりあえずこの国にはもうアメリカに対して抵抗するような勢力は存在しない、レジスタンスもないし、パルチザンもないし、ソ連や中国の国際共産主義の運動と連動する勢力もないということを強く訴える必要があった。我々は、このあと軍事的な直接的占領体制から脱したとしても、決してアメリカに反発したり、アメリカに対抗する敵対勢力と同盟したりすることはありませんという誓約をなし、確証を与えないと、主権が回復できなかった。そういう切羽詰まった事情があったわけです。
 その時期において、実際には面従腹背であったわけですけれども、対米従属という戦略を選んだことは、客観的にも主観的も合理的な選択だったと思います。それ以外の選択肢は事実上日本にはなかった。
 ですから、吉田茂、岸信介、佐藤栄作あたりまで、一九七〇年代なかばまでの戦後政治家たちは、対米従属を通じてアメリカの信頼を獲得して、それによってアメリカに直接統治されている属国状態から、次第にフリーハンドを回復して、最終的に米軍基地がすべて撤去された後、憲法を改定して主権国家としての体面を回復する、そういうロードマップを描いていたのだと思います。アメリカから「のれん分け」してもらった後、外交についても、国防についても日本独自の戦略を展開してゆく。半世紀くらいかけてじわじわと独立を回復していく、そういう気長なスケジュールを組んでいたんだろうと思います。
 そのスケジュールの選択というのは、当時の日本においては必至のものであったし、十分な合理性もあったと思います。そして、この戦略の合理性を確信させたのは、何よりも成功体験があったからです。対米従属したら、うまくいった。その成功体験があった。
 一つは、一九五一年、サンフランシスコ講和条約です。戦後六年目にして、日本は形の上では独立を回復するわけですけれども、当時の国際社会の常識に照らしても、これほど敗戦国に対して寛容で融和的な講和条約というのは歴史上なかなか見い出しがたいと言われたほどに、寛大な講和条約が結ばれた。
 これは、やはりそれまでの6年間の日本の対米従属の果実とみなすべきでしょう。ですから、日本の為政者たちは「対米従属戦略は正しかった」と確信することになった。対米従属によって主権の回復という大きな国益を獲得した。そういう成功体験として、サンフランシスコ講和条約は記憶されたのだろうと思います。当分これでいこう、これだけ大きな譲歩をアメリカから得られたということは、これからさらに対米従属を続けていけばいくほど、日本の主権の回復は進んでゆくという楽観的な見通しをそのとき日本人たちは深く刻み込んだ。
 あまりこういうことを言う人はいませんが、対米従属路線の二度目の成功体験は七二年の沖縄返還です。佐藤栄作首相はアメリカのベトナム戦争に対して全面的な後方支援体制をとりました。国際社会からはアメリカの帝国主義的な世界戦略に無批判に従属する日本の態度はきびしいまなざしに曝されました。僕自身も学生でしたから、なぜ佐藤栄作はこのような明らかに義のない戦争についてまで対米従属するのか、怒りを禁じ得なかったわけです。でも、イノセントな学生の目から見ると犯罪的な対米従属である佐藤栄作のふるまいも、長期的な国益という点で見ると、それなりの合理性があったわけです。義のない戦争に加担した代償として、日本は沖縄返還という外交的果実を獲得できたんですから。 
 この二つの成功体験が日本人の「対米従属路線」への確信を決定づけたのだと僕は思います。少なくとも一九七二年、戦後二十七年までは「対米従属を通じての対米自立」という戦略は絵に描いた餅ではなくて、一定の現実性を持っていた。けれども、その現実性がしだいに希薄になってゆく。
 人間は一度有効だった戦略に固着する傾向があります。
 「待ちぼうけ」という童謡がありますね。元ネタは韓非子の「守株待兎」という逸話です。畑の隅の切り株にたまたま兎がぶつかって首の骨を折って死んだ。兎を持ち帰った農夫はそれに味をしめ、次の日からは耕作を止めて終日兎の来るのを待ち続けた。ついに兎は二度と切り株にぶつからず、畑は荒れ果てて、農夫は国中の笑いものになった。
「小成は大成を妨げる」と言いますけれども、日本はこの農夫に似ている。戦後の二つの成功体験によって、この成功体験、この戦略に居着いてしまった。国力をじっくり蓄え、文化を豊かにし、国際社会における信認を高めて、独立国、主権国家として国際社会に承認されるという迂遠な道を避け、ただ対米従属していさえすればよいという「待兎」戦略に切り替えた。
 それまでの戦後政治家たちは、かなり複雑なマヌーバーを駆使して日米関係をコントロールしていたと思うんです。政治家ばかりでなく、官僚も学者や知識人も、日米関係というのは非常に複雑なゲームだということがわかっていた。それを巧みにコントロールして、できるだけ従属度を減らして、できるだけ主権的にふるまうというパワーゲームのためにそれなりの知恵を絞っていた。なにしろ、アメリカは日本にとって直近の戦争の敵国ですから、さまざまな点で国益が対立している。それを調整して、アメリカの国益増大を支援しつつ、日本の国益を増大させるというトリッキーなゲームですから、かなりの知的緊張が要求された。
 ところが、僕の印象では、八〇年代から後、そういう緊張感が政治家たちに見えなくなくなってしまった。日米両国が、それぞれの国益をかけて、非常に厳しい水面下のバトルを展開しているという感じがなくなってしまった。ただ単純に対米従属してさえいればいいことがあるという思い込みに日本のエスタブリッシュメント全体が領されるようになった。対米従属をすると、「いいこと」があるという、シンプルな入力出力相関システム、いわゆる「ペニー=ガム・メカニズム」のようなものとして日米関係を構想する人たちがしだいに増えてきて、気がつけば多数派を形成するようになった。日米関係が一種の「ブラックボックス」になってしまって、「対米従属」という「ペニー銅貨」を放り込むと、「なにかいいこと」という「ガム」が出てくるという単純なメカニズム幻想が定着してしまった。そんなふうに日米関係が現実から遊離して、幻想の領域に浮き上がってしまったのが、だいたい80年代なかばから後ではないかと思います。
 どうしてこんなことになったのかというと、結局は「時間の問題」だったと思います。
「対米従属を通じての対米自立」という発想そのものの合理性は、確かに論ずるまでもない。でも、時間がたってくると、その装置を管理運営する人間が入れ替わる。敗戦直後のとき、日本の外交戦略のフロントラインにいた人たちは、日米の国益の間には齟齬がある。両国の国益が一致するということは原理的にはありえないということを骨身にしみて知っていた。当たり前です、殺し合いをしてきたばかりなんですから。国益が相反するということがわかった上で、「面従腹背」のマヌーバーを展開していた。表面的にはアメリカに追随するが、本心では早くアメリカを厄介払いしたいと思っていた。
でも、面従腹背のポーズもそれが二世代三世代にわたって続くうちに変質してしまう。「面従」だけが残って、「腹背」が消えてしまう。対米従属がそのまま日本の国益増大であると頭から信じ込む人たちが増えてきた。増えてきたどころではなく、政界、財界、メディア、学会、どこでも、対米従属・日米同盟機軸以外の選択肢を考えたことがある人がいなくなってしまった。
 以前、あるアメリカ政治の専門家に「日米同盟以外の安全保障の選択肢」について質問したことがありましたが、質問に驚いて絶句してしまいました。対米従属以外の政治的選択肢があるかどうかを吟味したことがなかったようでした。でも、例えば、イギリスの政治学者に「対米同盟以外の安全保障の選択肢」を訊いても、ドイツの政治学者に「EU以外の安全保障の選択肢」を訊いても、「考えたことがない」と答えることはありえないと思います。ふつうは「いまある仕組み以外の可能性」を、蓋然性がどれほど低くても、一応は考えておく。日本人だけが外交戦略において「日米同盟基軸」、つまり対米従属以外のいかなる選択肢についてもその可能性や合理性について考えない。これはあきらかに病的な症候です。
 対米従属が国家戦略ではなく、ある種の病的固着となっていることがわかったのは、鳩山さんの普天間基地移転についての発言をめぐる騒ぎのときです。僕は、あのとき、報道を注視していて、ほんとうにびっくりした。あのときが、日本の大きな転換点ではなかったか思います。
 鳩山首相は、普天間基地をできたら国外、せめて県外に移転したいと言ったわけです。国内における米軍基地の負担を軽減したい。できたら国外に移って欲しい、そう言った。外国の軍隊が恒常的に国内に駐留しているというのは、どの主権国家にとっても恥ずかしいことです。ふつうはそう感じます。外国の基地が常時駐留するのは誰が見ても軍事的従属国のポジションだからです。
 フィリピンはアメリカの軍事的属国的なポジションの国でしたけれど、憲法を改正して外国軍の駐留を認めないことにしました。そのせいで米軍はクラーク、スーヴィックというアメリカ最大の海外基地からの撤収を余儀なくされました。韓国でも、激しい反基地運動を展開した結果、在韓米軍基地は大幅に縮小されました。ソウル市内にあった龍山基地も移転させられた。
 でも、日本のメディアは、韓国やフィリピンにおける反基地運動をほとんど報道しませんでした。僕はまったく知らなかった。以前、海外特派員協会というところに呼ばれて講演したときに、司会をしていたイギリス人ジャーナリストから「韓国の反基地運動についてはどう思いますか」と質問されて、「その話を知りません」と答えたら、驚かれたことがあります。「安全保障や外交のことを話している人間が、隣国の基地問題を知らないのか?」と。でも、日本のメディアで、そんな話を聴いたことがなかった。
韓国では、長期にわたる反基地運動の結果、在韓米軍基地は縮小されています。日本では、相変わらず「半島有事に備えて」という理由で沖縄の軍事的重要性は変わらないというようなことを新聞の社説は書いている。でも、「半島有事の備え」がそれほど喫緊であるというのなら、朝鮮半島の米軍基地が縮小されている理由が説明できない。それほど北朝鮮の軍事リスクが高いなら、むしろ韓国の米軍を増強すべきでしょう。だから、そこを衝かれたくないので、日本では東アジアでの米軍基地縮小の事実そのものが報道されない。
 さらにややこしいのは、韓国の場合は、そうやって米軍基地は縮小するけれども、戦時作戦統制権はまだアメリカに持っていてもらっているということです。つまり、米軍基地は邪魔だから出て行ってもらいたいけれど、北朝鮮と一戦構えるときには米軍に出動して欲しいので、戦時作戦統制権だけはアメリカに押しつけている。そうやってアメリカをステークホルダーに巻き込むという、かなりトリッキーな米韓関係を展開しています。
 でも、これは主権国家としては当然のことなのです。米軍は平時はいると邪魔だが、非常時には必要になる。韓国側の自己都合でそういう勝手なことを言っている。主権国家というのは「そういうもの」です。自国の国益を優先して勝手なことを言うことのできる国のことです。韓国はその点で主権国家です。
 フィリピンもそうです。一旦は米軍基地を邪魔だから出て行けと追い出しておきながら、南シナ海で中国との領土問題が起きてくると、やはり戻ってこいと言い始めた。言っていることは首尾一貫していないようですが、首尾一貫している。自国の国益を最優先している。
 その中にあって、日本だけが違う。それぞれの国が自国の国益を追求していって、他国の国益との間ですり合わせをしていって、落としどころを探していく。これが本来の主権国家同士の外交交渉のはずですが、日本だけはアメリカ相手にそういうゲームをしていない。アジア諸国がアメリカと五分でシビアな折衝をしている中で、日本だけがアメリカに何も要求しないで、ただ唯々諾々とその指示に従っている。それどころか、近隣の国がアメリカ相手に堂々とパワーゲームを展開しているというニュース自体が、日本ではほとんど報道されない。
 その鳩山さんの件ですけれども、鳩山さんは、国内に米軍基地、外国軍の基地があるということは望ましいことではないと言ったわけです。当たり前ですよね。主権国家としては、当然、そう発言すべきである。沖縄の場合は、日本国土の0.6%の面積に、国内の75%の米軍基地が集中している。これは異常という他ない。この事態に対して、基地を縮小して欲しい、できたら国外に撤去していただきたいということを要求するのは主権国家としては当然のことなわけです。けれども、この発言に対しては集中的なバッシングがありました。特に外務省と防衛省は、首相の足を引っ張り、結果的に首相の退陣の流れをつくった。
アメリカから「鳩山というのはどうもアメリカにとって役に立たない人間だから、首相の座から落とすように」という指示があったと僕は思っていません。そんな内政干渉になるような指示をしなくても、鳩山が首相でいると、アメリカの国益が損なわれるリスクがあるから、引きずり下ろそうということを考える政治家や官僚がいくらも日本国内にいるからです。メディアも連日、「アメリカの信頼を失った鳩山は辞めるべきだ」という報道をしていました。なぜ、日本の首相が米軍基地の縮小や移転を求めたことが日本の国益を損なうことになるのか、僕には理由がわかりませんでした。
この事件は「アメリカの国益を最大化することが、すなわち日本の国益を最大化することなのである」という信憑を日本の指導層が深く内面化してしまった、彼らの知的頽廃の典型的な症状だったと思っております。
 映画監督のオリバー・ストーンが、2013年に日本に来て、広島で講演をしたことがありました。これも日本のメディアは講演内容についてはほとんど報道しませんでした。オリバー・ストーンが講演で言ったのはこういうことです。
 日本にはすばらしい文化がある、日本の映画もすばらしい、音楽も美術もすばらしいし、食文化もすばらしい。けれども、日本の政治には見るべきものが何もない。あなた方は実に多くのものを世界にもたらしたけれども、日本のこれまでの総理大臣の中で、世界がどうあるべきかについて何ごとかを語った人はいない。一人もいない。Don’t stand for anything 彼らは何一つ代表していない。いかなる大義も掲げたことがない。日本は政治的にはアメリカの属国(client state)であり、衛星国(satellite state)である、と。これは日本の本質をずばりと衝いた言葉だったと思います。アメリカのリベラル派の人たちのこれが正直な見解でしょう。
 日本はたしかにさまざまな力を持っている。経済力も文化力もある。平和憲法を維持して、戦争にコミットせずに来た。けれども、国際社会に向けて発信するようなメッセージは何にも持っていない。アメリカに追随するという以外の独自の政治的方向性を持っていない。これは、アメリカ人のみならず、国際社会から見たときの日本に対する典型的な印象ではないかと思います。
 鳩山首相が日本の国益を代表して、素直に国土を回復したい、主権を回復したいということをアメリカに伝えたら、寄ってたかって日本人がそれを潰したという事実そのものが日本の罹患した病の徴候だったと僕は思います。アプローチは拙劣だったかも知れないが、首相の主張は正しいという擁護の論陣を張ったメディアは僕の知る限りありませんでした。アメリカの信頼を裏切るような政治家に国政は託せないというのがほとんどすべてのメディアの論調でした。「ちょっと、それはおかしいんじゃないか」と言う人がほとんどいなかったことを僕は「おかしい」と思いました。
 主権国家が配慮するのは、まず国土の保全、国民の安寧、通貨の安定、外交や国防についての最適政策の選択、そういったことだと思います。主権の第一条件である「国土の回復」を要求した従属国の首相が、国土を占領している宗主国によってではなくて、占領されている側の自国の官僚や政治家やジャーナリストによって攻撃を受ける。これは倒錯的という他ありません。
 なぜこのような病的傾向が生じたのか。それは「対米従属を通じての対米自立」という敗戦直後に採用された経験則を、その有効性についてそのつど吟味することなく、機械的にいまだに適用し続けているせいだと思います。でも、考えてもみてください。1972年の沖縄返還から後は、もう42年経っている。その間、アメリカから日本が奪還したものは何一つないわけです。42年間、日本は対米従属を通じて何一つ主権を回復していないんです。対米従属は日本にこの42年間、何一つ見るべき果実をもたらしていないという現実を「対米従属論者」はどう評価しているのか。このままさらにもう50年、100年この「守株待兎」戦略を継続すべきだという判断の根拠は何なのか。これを続ければ、いつ沖縄の基地は撤去されるのか、横田基地は戻って来るのか。それを何も問わないままに、前例を踏襲するという前例主義によって対米従属が続いている。
 アメリカから見ると、日本側のプレイヤーの質が変わったということは、もうある段階で見切られていると思うんです。それまで日本は、それなりにタフなネゴシエーターであった。対米従属のカードを切った場合には、それに対する見返りを要求してきた。しかし、ある段階から、対米従属が制度化し、対米従属的なマインドを持っている人間だけしか日本国内のヒエラルキーの中で出世できないような仕組みになった。それから、相手にするプレイヤーが変わったということに、アメリカはもう気づいていると思います。
 かつてのプレイヤーは対米従属を通じて、日本の国益を引き出そうとしていたわけですけれど、いまのプレイヤーたちは違う。アメリカの国益と日本の国益という本来相反するはずのものを「すり合わせる」ことではなく、アメリカの国益を増大させると「わが身によいことが起こる」というふうに考える人たちが政策決定の要路に立っている。
現に、これまで対米従属路線を疑うことなくひた走ってきたせいで「今日の地位」を得た人たちがそこにいるわけですから、彼らがこれからも対米従属路線をひた走ることはとどめがたい。彼らにおいては、いつのまに国益追求と自己利益の追求がオーバーラップしてしまっている。何のための対米従属かというと、とりあえず、そうすると「わが身にはよいことが起こる」のが確実だからです。
 植民地において、植民地原住民であるにもかかわらず、宗主国民にすりよって、その便宜をはかる代わりに、政治的経済的な見返りを要求するものは清朝末期に「買弁」と呼ばれました。今の日本の指導層は、宗主国への従属的ポーズを通じて、自己利益を増大させようとしている点において、すでに「買弁的」であると言わざるを得ないと僕は思っています。
 では、この後、日本は一体どうやって主権回復への道を歩んでいったらいいのか。
 今、アメリカから見て、日本というのは非常に不可解な国に見えていると思います。
 かつての吉田茂以来の日本のカウンターパートは、基本的に日本の国益を守るためにアメリカと交渉してきた。その動機は明確だった。けれども、ある段階から、そうでなくなってきてしまった。対米従属戦略が面従腹背の複雑なタクティクスであることをやめ、疑いえない「国是」となってしまった。それによって日本の国益が少しも増大しないにもかかわらず、対米従属することに誰も反対できない。そういう仕組みが四十年間続いている。
 そうすると、アメリカは日本の政治家をどう見るか。交渉する場合、日本の代表者が自国の国益を増大しようと思っているのであるならば、そこで展開するゲームには合理性があるわけです。アメリカの国益と日本の国益というのは、利害が相反する点があり、一致する点がある。そのすりあわせをするのが外交だった。ところが、いつのまにか、あきらかに日本の国益を害することが確実な要求に対しても、日本側が抵抗しなくなってきた。そのふるまいは彼らが日本の国益を代表していると考えると理解できない。日本を統治している人たちが、自国の国益の増大に関心がないように見えるわけですから。
 例えば、特定秘密保護法です。特定秘密保護法というものは、要するに民主国家である日本が、国民に与えられている基本的な人権である言論の自由を制約しようとする法律です。国民にとっては何の利もない。なぜ、そのような反民主的な法律の制定を強行採決をしてまで急ぐのか。
 理由は「このような法律がなければアメリカの軍機が漏れて、日米の共同的な軍事作戦の支障になる」ということでした。アメリカの国益を守るためにであれば、日本国民の言論の自由などは抑圧しても構わない、と。安倍政権はそういう意思表示をしたわけです。そして、アメリカの軍機を守るために日本国民の基本的人権を制約しましたとアメリカに申し出たわけです。日本の国民全体の利益を損なうことを通じて、アメリカの軍機を守りたい、と。言われたアメリカからしてみたら、「ああ、そうですか。そりゃ、どうも」という以外に言葉がないでしょう。たしかにそうおっしゃって頂けるのはまことにありがたいことではあるけれど、一体何で日本政府がそんなことを言ってくるのか、実はよくわからない。なぜ日本は国民の基本的人権の制約というような「犠牲」をアメリカのために捧げるのか。
 そもそも国家機密というのは、政府のトップレベルから漏洩するから危険なわけです。ご存じのとおり、イギリスのキム・フィルビー事件というのがありました。対ソ連諜報部の部長だったキム・フィルビーが、ずっとソ連のスパイであって、イギリスとアメリカの対ソ連情報はすべてソ連に筒抜けだったという戦後最大のスパイ事件です。それ以来、諜報機関の中枢からの機密漏洩はどうすれば防げるかというのが、インテリジェンスについて考える場合の最大の課題なわけです。
その前にも、イギリスではプロヒューモ事件というものがありました。陸軍大臣が売春婦にいろいろと軍機を漏らしてしまった。
 けれども、今回の特定秘密保護法は、世界が経験した史上最悪のスパイ事件については全く配慮していない。キム・フィルビー事件のようなかたちでの機密漏洩をどうやって防ぐかということに関しては誰も一秒も頭を使っていない。そういうことは「ない」ということを前提に法律が起案されている。つまり、今現に、日本で「キム・フィルビー型の諜報活動」を行っている人間については、「そのようなものは存在しない」とされているわけです。彼らは未来永劫にフリーハンドを保証されたことになる。いないものは探索しようもないですから。
 現に国家権力の中枢から国家機密が漏洩しているということは、日本ではもう既に日常的に行われていると僕は思っています。どこに流れているか。もちろんアメリカに流れている。政治家でも官僚でもジャーナリストでも、知る限りの機密をアメリカとの間に取り結んだそれぞれの「パイプ」に流し込んでいる。それがアメリカの国益を増大させるタイプの情報であれば、その見返りは彼らに個人的な報奨としてリターンされてくる。結果的に政府部内や業界内における彼らの地位は上昇する。そして、彼らがアメリカに流す機密はますます質の高いものになる。そういう「ウィン・ウィン」の仕組みがもう出来上がっている、僕はそう確信しています。特定秘密保護法は、「機密漏洩防止」ではなく、彼らの「機密漏洩」システムをより堅牢なものとするための法律です。アメリカの国益増大のために制定された法律なんですから、その法律がアメリカの国益増大のための機密漏洩を処罰できるはずがない。
特定秘密保護法にアメリカが反対しなかったというのは、自国民の基本的人権を制約してまでアメリカの軍機を守るという法律制定の趣旨と、権力中枢からの情報漏洩については「そのようなものは存在しない」という前提に立つ法整備に好感を抱いたからです。これから先、日本政府の中枢からどのようなかたちで国家機密がアメリカに漏洩しようとも、いったん「特定秘密」に指定された情報については、それが何であるか、誰がそれをどう取り扱ったか、すべてが隠蔽されてしまう。どれほど秘密が漏洩しても、もう誰にもわからない。
 もし、僕がアメリカの国務省の役人だったら、日本人は頭がおかしくなったのかと思ったはずです。たしかにアメリカにとってはありがたいお申し出であるが、何でこんなことをするのかがわからない。どう考えてみても日本の国益に全く資するところがない。そもそも防諜のための法律として機能しそうもない。そのようなザル法を制定する代償として、自国民の基本的人権を抑圧しようという。言論の自由を制約してまで、アメリカに対してサービスをする。たしかにアメリカ側としては断るロジックがありません。わが国益よりも民主主義の理想の方が大切だから、そんな法律は作るのをやめなさいというようなきれいごとはアメリカ政府が言えるはずがない。日本からの申し出を断るロジックはないけれど、それでも日本人が何を考えているかはわからない。いったい、特定秘密保護法で日本人の誰がどういう利益を得るのか?
日本政府が日本の国益を損なうような法律を「アメリカのために」整備したのだとすれば、それは国益以外の「見返り」を求めてなされたということになる。国益でないとすれば何か。現政権の延命とか、政治家や官僚個人の自己利益の増大といったものを求めてなされたとみなすしかない。
現に、米国務省はそう判断していると思います。日本政府からの「サービス」はありがたく受け取るけれど、そのようにしてまでアメリカにおもねってくる政治家や官僚を「日本国益の代表者」として遇することはしない、と。
 集団的自衛権もそうです。集団的自衛権というのは、平たく言えば「他人の喧嘩を買う権利」のことです。少なくともこれまでの発動例を見る限りは、ハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱、ベトナム戦争、アフガニスタン侵攻など、ソ連とアメリカという二大超大国が、自分の「シマ内」にある傀儡政権が反対勢力によって倒されそうになったときに、「てこ入れ」するために自軍を投入するときの法的根拠として使った事例しかない。
何で日本が集団的自衛権なんか行使したがるのかが、ですから僕にはさっぱりわからない。いったいどこに日本の「衛星国」や「従属国」があるのか。海外のどこかに日本の傀儡政権があるというのであれば、話はわかる。その親日政権が民主化運動で倒れかけている。しようがないから、ちょっと軍隊を出して反対勢力を武力で弾圧して、政権のてこ入れをしてこようというのであれば、ひどい話ではあるけれども、話の筋目は通っている。でも、日本にはそんな「シマうち」の国なんかありません。
 結局、集団的自衛権の行使というのは、現実的にはアメリカが自分の「シマうち」を締めるときにその海外派兵に日本もくっついていって、アメリカの下請で軍事行動をとるというかたちしかありえない。アメリカの場合、自国の若者が中東や西アジアやアフリカで死ぬということにもう耐えられなくなっている。意味がわからないから。でも、海外の紛争には介入しなければならない。しかたがないから、何とかして「死者の外部化」をはかっている。無人飛行機を飛ばしたり、ミサイルを飛ばしたりしているというのは、基本的には生身の人間の血を流したくないということです。攻撃はしたいけれども、血は流したくない。だから、民間の警備会社への戦闘のアウトソーシングをしています。これはまさに「死者の外部化」に他なりません。たしかに、これによって戦死者は軽減した。でも、その代わり莫大な財政上の負荷が生じた。警備会社、要するに傭兵会社ですけれど、めちゃくちゃな値段を要求してきますから。アメリカは、その経済的な負担に耐えることができなくなってきている。
 そこに日本が集団的自衛権の行使容認を閣議決定しましたと言ったら、アメリカ側からしてみると大歓迎なわけです。これまで民間の警備会社にアウトソーシングして、莫大な料金を請求されている仕事を、これから自衛隊が無料でやってくれるわけですから。願ってもない話なわけですよね。「やあ、ありがとう」と言う以外に言葉がない。
ただ、「やあ、ありがとう」とは言いながら、何で日本がこんなことをしてくれるのか、その動機についてはやっぱり理解不可能である。
アメリカが金を払って雇っている傭兵の代わりに無料の自衛隊員を使っていいですというオファーを日本政府はしてきているわけで、それがどうして日本の国益増大に資することになるのか、アメリカ人が考えてもわからない。
 つまり、確かに日本政府がやっていることはアメリカにとってはありがたいことであり、アメリカの国益を増すことではあるんだけれども、それは少しも日本の国益を増すようには見えない。これから自衛隊が海外に出ていって、自衛隊員がそこで死傷する。あるいは、現地人を殺し、町を焼いたりして、結果的に日本そのものがテロリストの標的になるという大きなリスクを抱えることになるわけです。戦争にコミットして、結果的にテロの標的になることによって生じる「カウンターテロのコスト」は巨大な額にのぼります。今の日本はテロ対策のための社会的コストをほとんど負担していないで済ませている。それをいきなり全部かぶろうというわけですから、アメリカとしては「やあ、ありがとう」以外の言葉はないけれど、「君、何を考えてそんなことするんだ」という疑念は払拭できない。
 僕はいつも自分がアメリカ国務省の小役人だったらという想定で物を考えるんですけれども、上司から「内田君、日本は特定秘密保護法といい、集団的自衛権行使容認といい、アメリカのためにいろいろしてくれているんだけれど、どちらも日本の国益に資する選択とは思われない。いったい日本政府は何でこんな不条理な決断を下したのか、君に説明できるかね?」と問われたら、どう答えるか。
たしかに、国益の増大のためではないですね。沖縄返還までの対米従属路線であれば、日本が犠牲を払うことによってアメリカから譲歩を引き出すというやりとりはあったわけですけれども、この間の対米従属をみていると、何をめざしてそんなことをしているのか、それがよく見えない。たぶん、彼らは国益の増大を求めているのではないんじゃないか。そう答申すると思います。
 今、日本で政策決定している人たちというのは、国益の増大のためにやっているのではなくて、ドメスチックなヒエラルキーの中で出世と自己利益の拡大のためにそうしているように見えます。つまり、「国民資源をアメリカに売って、その一部を自己利益に付け替えている」というふうに見立てるのが適切ではないかと思います。 
 国民資源というのは、日本がこれから百年、二百年続くためのストックのことです。それは手を着けてはいけないものです。民主制という仕組みもそうだし、国土もそうだし、国民の健康もそうだし、伝統文化もそうです。でも、今の日本政府はストックとして保持すべき国民資源を次々と商品化して市場に流している。それを世界中のグローバル企業が食いたい放題に食い荒らすことができるような仕組みを作ろうとしている。そんなことをすれば、日本全体としての国民資源は損なわれ、長期の国益は逓減してゆくわけですけれども、政官財はそれを主導している。彼らのそういう気違いじみた行動を動機づけているものは何かと言ったら、それが国益の増大に結びつく回路が存在しない以上、私利私欲の追求でしかないわけです。
自傷的、自滅的な対米従属政策の合理的な根拠を求めようとすれば、それは、対米従属派の人たち自身がそこから個人的に利益を得られる仕組みになっているからという以外に「国務省の役人になったと想像してみた内田」のレポートの結論はありません。
 対米従属すればするほど、社会的格付けが上がり、出世し、議席を得、大学のポストにありつき、政府委員に選ばれ、メディアへの露出が増え、個人資産が増える、そういう仕組みがこの42年間の間に日本にはできてしまった。この「ポスト72年体制」に居着いた人々が現代日本では指導層を形成しており、政策を起案し、ビジネスモデルを創り出し、メディアの論調を決定している。
 ふつう「こういうこと」は主権国家では起こりません。これは典型的な「買弁」的な行動様式だからです。植民地でしか起こらない。買弁というのは、自分の国なんかどうだって構わない、自分さえよければそれでいいという考え方をする人たちのことです。日本で「グローバル人材」と呼ばれているのは、そういう人たちのことです。日本的文脈では「グローバル」という言葉をすべて「買弁」という言葉に置き換えても意味が通るような気がします。文科省の「グローバル人材育成」戦略などは「買弁人材育成」と書き換えた方がよほどすっきりします。
 安倍さんという人は、一応、戦後日本政治家のDNAを少しは引き継いでいますから、さすがにべったりの対米従属ではありません。内心としては、どこかで対米自立を果さなければならないと思ってはいる。けれども、それを「国益の増大」というかたちではもう考えられないんです。そういう複雑なゲームができるだけの知力がない。
だから、安倍さんは非常にシンプルなゲームをアメリカに仕掛けている。アメリカに対して一つ従属的な政策を実施した後には、一つアメリカが嫌がることをする。
ご存じのとおり、集団的自衛権成立の後に、北朝鮮への経済制裁を一部解除しました。沖縄の仲井真知事を説得して辺野古の埋め立て申請の承認を取り付けた後はすぐに靖国神社に参拝しました。つまり、「アメリカが喜ぶこと」を一つやった後は、「アメリカが嫌がること」を一つやる。おもねった後に足を踏む。これが安倍晋三の中での「面従腹背」なのです。日米の国益のやりとりではなく、アメリカの国益を増大させた代償に、「彼が個人的にしたいことで、アメリカが厭がりそうなこと」をやってみせる。主観的には「これで五分五分の交渉をしている」と彼は満足しているのだろうと思いますけれど、靖国参拝や北朝鮮への譲歩がなぜ日本国益の増大に結びつくのかについての検証はしない。彼にとっては「自分がしたいことで、アメリカが厭がりそうなこと」ではあるのでしょうけれど、それが日本の国益増に資する政策判断であるかどうかは吟味することさえしていない。
「対米従属を通じての対米自立」という戦後日本の国家戦略はここに至って、ほとんど戯画のレベルにまで矮小化されてしまったと思います。
だから、これから後も彼は同じパターンを繰り返すと思います。対米譲歩した後に、アメリカが厭がりそうなことをする。彼から見たら、五ポイント譲歩したので、五ポイント獲得した。これが外交だ、と。彼自身は、それによって、アメリカと五分五分のパートナーとして対等な外交交渉をしているつもりでいると思うんです。
 では一体これから我々はどうやって主権国家として、主権国家への道を歩んだらいいかということを述べたいと思います。
 国というものを、皆さんはたぶん水平的に表象していると思います。
ビジネスマンはそうです。今期の収益とか、株価ということばかり考えている人は、それと同じように国のことも考える。ですから、世界を水平的に、二次元的に「地図」として表象して、その中での自分たちの取り分はどれぐらいか、パイのどれぐらいを取っているか。そういうような形で国威や国力を格付けしてようとしている。けれども、本来の国というのは空間的に表象するものではない、僕はそう思っています。地図の上の半島の広さとか、勢力圏というものを二次元的に表象して、これが国力であると考えるのは、間違っていると思う。
 国というのはそういうものではなくて、実際には垂直方向、時間の中でも生きているものです。我々がこの国を共有している、日本なら日本という国の構成メンバーというのは、同時代に生きている人間だけではない。そこには死者も含まれているし、これから生まれてくる子供たちも含まれている。その人たちと、一つの多細胞性物のような共生体を私たちは形づくっている。そこに、国というもののほんとうの強みがあると思います。
 鶴見俊輔さんは、開戦直前にハーバード大学を卒業するわけですけれども、そのときにアメリカに残るか、交換船で日本に帰るかという選択のときに、日本に帰るという選択をします。自分は随分長くアメリカにいて、英語で物を考えるようになってしまったし、日本語もおぼつかなくなっている。そもそも日本の政治家がどの程度の人物かよくわかっているし、多分、日本はこれから戦争をやったら負けるだろう。そこまでわかっていたけれども、日本に帰る、そう決意する。そのときの理由として鶴見さんが書いているのは、負けるときには自分の「くに」にいたい、ということでした。
「くに」とともに生き死にしたいというのは、これは、やはりすごく重たいことだと思うんです。この感覚というのは、なかなか政治学の用語ではうまく語り切ることができないんですけれども、簡単に想像の共同体だ、共同幻想だとか言い切られてしまっては困る。というのは、実際に、我々日本人は、現在列島に居住する一億三千万人だけでなく、死者たちも、これから生まれてくる子供たちも、同じ日本人のフルメンバーであるからです。ですから、過去の死者たちに対しては、彼らが犯した負債に関しては、我々は受け継がなければいけない。そして、できたら完済して、できなければ、できるだけ軽減して、次世代に送り出さなければいけない。その仕事が僕らに課されているだろうと思っています。
 今の日本ではグローバリズムとナショナリズムが混交しています。グローバリストはしばしば同時に暴力的な排外主義者でもある。僕はそれは別に不思議だとは思わない。それは彼らがまさに世界を二次元的に捉えていることの結果だと思うんです。グローバルな陣地取りゲームで、自分たちの「取り分」「シェア」を増やそうとしている。その点ではグローバル資本主義者と排外的ナショナリストはまったく同型的な思考をしている。
そして、排外主義ナショナリストというのは、伝統文化に関して全く関心を示しません。死者に対して関心がないからです。彼らにとって死者というのは、自説の傍証として便利なときに呼び出して、使役させるだけの存在です。都合のいいときだけ都合のよい文脈で使って、用事がなければ忘れてしまう。自分に役立つ死者は重用するけれど、自説を覆す死者や、自説に適合しない死者たちは「存在しないこと」にして平気です。それはかれらが「くに」を考えているときに、そこには死者もこれから生まれてくる人たちも含まれていないからです。
 でも、僕たちが最終的に「くに」を立て直す、ほんとうに「立て直す」ところまで追い詰められていると思うんですけれども、立て直すときに僕らが求める資源というのは、結局、二つしかないわけです。
 一つは山河です。国破れて山河あり。政体が滅びても、経済システムが瓦解しても、山河は残ります。そこに足場を求めるしかない。もう一つは死者です。死者たちから遺贈されたものです。それを僕たちの代で断絶させてはならない。未来の世代に伝えなければならないという責務の感覚です。
山河というのは言語であり、宗教であり、生活習慣であり、食文化であり、儀礼祭祀であり、あるいは山紫水明の景観です。我々自身を養って、我々自身を生み、今も支えているような、人工的なものと自然資源が絡み合ってつくられた、一つの非常に複雑な培養器のようなもの、僕はそれを山河と呼びたいと思っています。山河とは何かということを、これから先、僕はきちんと言葉にしていきたいと思っています。
 もう一つは死者たちです。死者たちも、未来の世代も、今はまだ存在しない者も、我々のこの国の正規のフルメンバーであって、彼らの権利、彼らの義務に対しても配慮しなければいけない。
 僕は合気道をやっているわけですけれども、経験的にわかることの一つというのは、例えば体を動かすと、自分の体の筋肉、骨格筋とか、関節とか、そういうものを操作しようと思って、具体的に、今、存在するものをいじくっていっても体は整わないということです。
しかし、例えば今、手の内に刀を持っている。ここに柄があって、刃筋があって、切っ先がそこにある。手に持っていないものをイメージして体を使うと、全身が整う。
これは長く稽古してよくわかったことなんですけれども、実際には、我々は今、存在するもの、そこに具体的に物としてあるものを積み上げていって、一つの組織や集団をつくっているのではなくて、むしろ「そこにないもの」を手がかりにして、組織や身体、共同体というものを整えている。これは、僕は実感としてわかるんです。
 今、日本人に求められているものというのは、日本人がその心身を整えるときのよりどころとなるような「存在しないもの」だと思います。存在しないのだけれど、ありありと思い浮かべることができるもの、それを手にしたと感じたときに、強い力が発動するもの、自分の体が全部整っていて、いるべきときに、いるべきところにいるという実感を与えてくれるもの。太刀というのは手を延長した刃物ではなくて、それを握ることによって体が整って、これを「依代」として巨大な自然の力が体に流れ込んでくる、そういう一つの装置なわけです。それは、手の内にあってもいいし、なくてもいい。むしろ、ないほうがいいのかも知れない。
 今、日本が主権国家として再生するために、僕らに必要なものもそれに近いような気がします。存在しないもの、存在しないにもかかわらず、日本という国を整えて、それをいるべきときに、いるべきところに立たせ、なすべきことを教えてくれるようなもの。そのような指南力のある「存在しないもの」を手がかりにして国を作って行く。
日本国憲法はそのようなものの一つだと思います。理想主義的な憲法ですから、この憲法が求めている「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する」ことはたぶん未来永劫実現しない。地上では実現するはずがない。でも、そのような理想を掲げるということは国のかたちを整える上で非常に有効なわけです。何のためにこの国があるのか、自分の国家は何を実現するために存在するのかということを知るためには、我々が向かっている、ついにたどりつくことのない無限消失点なるものをしっかりとつかまなければいけない。それなしではどのような組織も立ちゆきません。
 これからどうやって日本という国を立て直していくのか考えるときには、つねに死者たちと、未だ生まれてこざる者たちと、生きている自分たちが一つの同胞として結ばれている、そういう考え方をするしかないのかなと思っております。
 これから日本は一体どうなっていくのか。実は、僕はあまり悲観していないんです。ここまでひどい政権だと、いくら何でも長くは保たないと思うんです。特に、隣国や国際社会の諸国から、もうちょっと合理的な思考をする政治家に統治してもらいたいという強い要請があると思うんです。そうでないと外交がゲームにならないから。
 現在の日本の安倍政権というのは、アメリカとも、中国とも、韓国とも、北朝鮮とも、ロシアとも、近隣の国、どこともが外交交渉ができない状態ですね。ほとんど「来なくていい」と言われているわけです。安倍さんが隣国のどことも実質的な首脳会談ができないのは、彼の国家戦略に対して、ほかの国々に異論がある、受け入れらないということではないと思います。日本の国家戦略がわからないからですよね。それでは、交渉しようがない。
 安倍さんが選択している政策は、あるいは単なる政治的延命のためのものなのかと思ったら、外国は怖くて、こんな人とは外交交渉はできないでしょう。個人的な政治的延命のために国政を左右するような人間とは誰だって交渉したくない。あまりに不安定ですから。国と国との約束は、そこで約束したことが五年、十年後もずっと継続する、国民の意思を踏まえていないと意味がない。でも、安倍さんの外交はどう見ても国民の総意を代表しているものとは思われない。日本国民が「代表してもらっていない」と思っているというのではなく、諸国の首脳が「この人の言葉は国の約束として重んじることができるのか」どうか疑問に思っているからです。ですから、これから先、安倍政権である限り、対米、対中、対韓、対ロシアのどの外交関係もはかばかしい進展はないと思います。どの国も「次の首相」としてもう少しもののわかった人間が出てくることを待っていて、それまでは未来を縛るような約束は交わさないつもりでいると思います。
 安倍政権に関しては、僕はそれほど長くは保たないと思います。既に自民党の中でも、次を狙っている人たちが動き出している。ただ、先ほど話したように、対米従属を通じて自己利益を増すという「買弁マインド」を持った人たちが、現在の日本のエスタブリッシュメントを構築しているという仕組み自体には変化がない以上、安倍さんが退場しても、次に出てくる政治家もやはり別種の「買弁政治家」であることに変わりはない。看板は変わっても、本質は変わらないと思います。
 どうやったらこのような政治体制を批判できるのか。僕が学術というものを最終的に信じているのはそこなんです。為政者に向かって、あなた方はこういうロジックに従ってこのような政策判断をして、あなた方はこういう動機でこの政策を採用し、こういう利益を確保しようとしている、そいうことをはっきり告げるということです。理非はともかく、事実として、彼ら政治家たちがどういうメカニズムで動いているものなのかをはっきりと開示する。本人にも、国民全体にも開示する。別に彼らが際立って邪悪であるとか、愚鈍であるとか言う必要はない。彼らの中に走っている主観的な首尾一貫性、合理性をあらわにしてゆく。その作業が最も強い批評性を持っているだろうと僕は思います。
 僕は、知恵と言葉が持っている力というのはとても大きいと思うんです。面と向かって、「おまえは間違っている」とか、「おまえは嫌いだ」とか言ってもだめなんです。そうではなくて、「あなたはこう考えているでしょう。だから、次、こうするでしょう。あなたの内的ロジックはこうだから、あなたがすることが私には予見できる」と。民話に出てくる「サトリ」ではないですけれど、他人におのれ思考の内的構造を言い当てられると、人間はフリーズしてしまって、やろうと思っていたことができなくなってしまう。人の暴走を止めようと思ったら、その人が次にやりそうなことをずばずば言い当てて、そのときにどういう大義名分を立てるか、どういう言い訳をするか、全部先回りして言い当ててしまえばいい。それをされると、言われた方はすごく嫌な気分になると思うんです。言い当てられたら不愉快だから、それは止めて、じゃあ違うことをやろうということになったりもする。そういうかたちであれば、口説の徒でも政治過程に関与することができる。僕はそういうふうに考えています。
 立憲デモクラシーの会には多くの知性が集合しているわけですが、僕はこういうネットワークを政治的な運動として展開するということには実はあまり興味がないんです。その政治的有効性に対しても、わりと懐疑的なんです。真に政治的なものは実は知性の働きだと思っているからです。
 今、何が起きているのか、今、現実に日本で国政の舵をとっている人たちが何を考えているのか、どういう欲望を持っているのか、どういう無意識的な衝動に駆動されているのか、それを白日のもとにさらしていくという作業が、実際にはデモをしたり署名を集めたりするよりも、時によっては何百倍何千倍も効果的な政治的な力になるだろうと僕は信じております。
 これからもこういう厭みな話をあちこちで語り続ける所存でございます。何とかこの言葉が安倍さんに届いて、彼がすごく不愉快な気分になってくれることを、そして俺はこんなことを考えているのかと知って、ちょっと愕然とするという日が来ることを期待して、言論活動を続けてまいりたいと思っております。
 (「内田樹の研究室」から引用させていただきました。講演はじめるときの自己紹介部分などは省略しました。西沢)