2016年9月1日木曜日

死と怒り・・・・逸徳

さて、誰だい。あなたは。 名前を忘れるのは老化性健忘だよ。

2月以来、身近な人を2人見送った。いろんなことを考えた。そのことを書いてみたい。すこし長くなったら続きものにしようか。

まず、人間の精神構造について、おいらにはぬけがたく次のようなイメージがある。それは同心円構造というか、あるいは玉ねぎ構造というべきか。 とにかく何層ものレベルの違う世界が自我をとりまいているのである。

中心にいる自分は、まったくの孤独である。孤独というのは自我の本質であってさみしいとか、なんとかということとは全然ちがう。愛だなんて言葉もいらない。一人なのである。たとえば望遠鏡でアンドロメダ星雲と向かい合っている時の自分、顕微鏡でゾウリムシの細胞内器官を観察している自分、さくら吹雪の中で鳥の声を聴いている自分。何も考えず、時間の流れもなく、ただ対象と向かい合って共鳴しあうのである。宇宙と向かい合う私。それだけである。

孤立はいやだが、孤独は怖くはない。それが本質なのだろうから。

で、最近の体験の中で孤独ということにかかわって次の言葉がよく浮かんだ。くどいときらわれるかもしれないが引用させてもらう。ひとつは空海さんの言葉
・・・・生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し(くらし)・・・・・「秘蔵宝やく(←変換できねえ)}
 
えらい虚無的であるが、はじめて読んだ時はショックを受けた。生まれるのも死ぬのも孤独だということだろう。似たことばがシェークスピアにもある。
・・・・人は泣きながらこの世に生まれ出て、たった一人で死んでいく・・・・(後半部異説あり)

要するに、人間の本質存在は孤独であって、そこから出てきて、そこに帰るんだということなのである。 そして生の真っ最中はあんまりそういうことは考えないかもしれないが、それでも本質は変わらない。

 で、そのことと人間精神の同心円構造とはどうかかわるか。
自分の社会的関係や、他者とのかかわり、その他もろもろのトラブルはおそらく、同心円構造のもっとも外側の問題である。もっとイメージ化すると、お城なら最外殻の三の丸、四の丸ぐらいの話で、ほんとの自分は天守閣にでーんとすわって、全体を鳥瞰していたりする。天守閣にはだれも入れない。おそらく外から見たら、どこに天守閣があるのかもよくわからない。自分にも分らないかもしれない。孤独というのはそういうイメージである。つまりだー。他者との関係、社会的存在としての自分にとって、泣いたり笑ったり、怒ったりしているのはみーんな一場の演技みたいな感じなのである。シェークスピアだっていう。「人生は舞台、人はみな役者」と。
 で、もろもろの生きるということについてのしがらみやトラブルはみーんな三の丸の話で、だから何があっても天守閣の自分はそんなに動じない。だって殿様が三の丸まで出て行ってわーわー騒いだりしたら、そのお城はすぐ落城するんじゃないかなあ。むしろ鳥瞰し、分析したりしている。

だから、たとえば相手が何かについて怒ったりこっちを攻撃したりすると、同レベルでかっかする前に「なんでこの人はこんなに怒っているのかなあ」と、分析したりしてしまう。これは相手を馬鹿にした話かもしれない。まるで医者が患者を診療しているような態度だからだ。しかし、腹がへっている野良犬に吠え掛かられたら、同レベルでほえ返すのはばかじゃないか。そこでの本質は原因の除去、たとえばエサをやってみることだろう。
 しかし、これも結局は三の丸、玉ねぎの表層の話に過ぎない。

ここまで書いて気が付いた。これ化学の話とそっくりだなあ。化学では「ある原子の化学的性質は最外殻の価電子の挙動によって決まる」という。そっくりでないかい。

でこの事が怒りとどうつながるか。ここまで書いて時間が来た。また書いてみる。

0 件のコメント:

コメントを投稿