2016年9月14日水曜日

問うことのむつかしさ・・・・逸徳

れんぽうさんの件にかかわって。

最近、地域づくりの運動にかかわって、住民の考えを聞く大規模なアンケート調査の企画を進めている。 人口10000人くらいの地域なのだが、統計的に意味のある調査を行おうとすると簡単ではない。結局調査の郵送費だけで15万くらいかかってしまう。もともと、住民の団体なのでそんなに金はない。その中でこういう問題にぶつかった。
どういう形の設問をするかによって、結果が左右されてしまうという問題である。何が問題なのかというこちらの仮説があって、それが正しいかどうかの設問がつくられる。したがって、こちら側の問題意識にのってこない問題はそもそも設問にあらわれてくることがない。またはすくない。そして設問にふくまれていない問題は、そもそも結果に出てこないから、そういう問題は存在しないということになりがちになる。
つまり、どんな眼鏡をかけるかによって対象のありようは違って見えてしまうのである。これを社会調査の専門家は「ひとは、自らの発する問いにみちびかれて、事物のありようをさぐる」という表現をする(そうである) つまり自分を離れて本当に中立公正な、純水のような純朴な設問というのはなかなかあり得ないのであろう。

れんぽうさんの国籍を問題にする人は、そのようなことが大きい問題であろうし、そういう問題を通して世の中を見てしまおうとする。ここから国粋主義とか、差別意識やヘイトスピーチの問題に結び付けて考えてしまうのは、ちと行きすぎかもしれない。だがしかしである。やはりそこで、我々はそういう見方をする人に問わなくてはならないだろう。「いったいなんでそんなことが問題なの?」と。

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