2016年9月5日月曜日

仁ちゃん お見舞い申し上げます・・・・逸徳

大変だったなあ。びっくりしたのは、南富良野の幾寅地区が仁ちゃんとつながったことだ。まあ、生きていればいろんなことがある。
 前回の続きをと考えていたが、やっぱり面白くないなあ。老化するとほとけみたいになるひとと、怒りっぽくなるひとがいることを、死の問題と結びつけて考えようかと思っていたんだが。

ただ、過去ということについて、最近感じていることがある。おいらはだんだん、過去の話が面白くなくなってきた。 というよりも、現在の自分、あるいは現在から始まる自分の未来にとって意味のある過去しか、精神的エネルギーをふりむける余裕がなくなってきたのである。だから、たとえば小学校や中学校の同窓会というやつへの関心が低下してきている。あの時代からずいぶん遠くまで来てしまった。ところがこうして、このホロホロ会に出てきたり、有志の旅行に参加するのは、大学時代という過去が、やっぱり抜きがたく現在の自分に関わっていて、いまだにあとを引いているからだ。つまり意味ある過去なのである。中川さんの言葉だったか、ちとわすれたが、「大学とは後天的個体発生の場だ」ということばが頭から離れないのである。

で、閑話休題。先日ある研究会で精神科のドクターと話をして、死亡判断の話になった。人間の死は、ある瞬間にばたんと死ぬ、つまり不連続点ではなくて、だんだん死ぬ、つまりフェードアウトなんだということらしい。で、どの瞬間を死亡と宣告するかは、これは科学というより、一種の文化の問題であると。で、どんな社会でも、その瞬間を決定するのは、世界共通に医者がやるということになっている。そこで脳死の話になった。脳死だって、一種のフェードアウトだから、PCを切ったみたいにパタンと能が停止するわけではない。つまり脳死といっても、その瞬間にまだ脳の一部は動いている可能性がある。というよりは、まだそれほど人間は能の働きを理解しきってはいない。
 で、ここからが恐ろしい話になる。脳死が宣告されて、ほとんど完全に能が停止したように見えていても、まだよくわからない部分において人間の意識が、それこそ0.00001%でも残っている可能性は否定しきれない。で、そういう患者から臓器移植をするということになった時、もしかしたらもしかしたらであるが、体を切り裂かれる痛みを感じる可能性もあるというのである。おいらも前から同じようなことを感じていたので、その脳科学の最新情報にくわしいドクターとの話で、おいらは自分が死んでも臓器提供をするのはやめることにした。もちろん家族もやめさせた。だって生きながら切られるってこわいじゃん。
 てなことを議論しているこのごろなのだ。

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